退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「時代あるいは空気」について

2014-11-07 02:37:06 | Weblog
快晴。夜になって風が吹く。

加藤元文「数学の想像力」を読む。

数学における「証明」という形式は今や
「いかにも正しいもの」としてあるが本当にそうなのかと。

かつて「目に見えるかたち」で「証明」されたさまざまなことが
やがて「無理数」あるいは「無限」に脅えることで「言葉によるもの」に変わる。

「目に見えないこと」にこそ「真理」があるという「信仰」が
そうした動きを加速させたところがある模様。

円周率について
西洋は「挟み撃ち」東洋は「地道な計算の結果出てきた数字の頻度」で求めたというのがなかなか。

本書の肝は中盤にあり冒頭と後半はいささか微妙。
「時代」を離れて物事は存在しないという「事実」をあらためて知ろう。

個人的な「体験」を繰り返せば
二十数年前に「飲酒運転」は「結構な日常」だったが現在は「厳罰」が下されるのでほぼ無理。

その種のことに「疎い人々」はいまだに「過去のままの行動をする」。
そういう「事件」がときどき起こっていて。

ちなみに自分は運転免許のない身で
そのことの「善悪」についてどうこう言うつもりもなく「事実」だけを述べておく。

「原理的に」考えればいつの時代も「飲酒運転」は危険なもの。
ただ「何気なくそれがまかり通っていた時代」があったことは確か。

それが「空気の支配」だとすると何ともはや。
やはり「目に見えないもの」は怖ろしいということか。

「ブレないこと」が評価されるのもそんなところに「原因」があるのだろう。
ただし「君子は豹変す」という言葉もあったりして。

「どうしようもなく不確かなわれわれ」は
よくも悪くも「好きに生きる」しかなさそう。
コメント
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