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 ヨーロッパで圧倒的な軍事力を誇っていたといえども、イギリス軍は遠くアジアに派遣された遠征軍でした。その兵力も軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍兵士約4,000名でした。野球で言うなら、中国軍はホームでの戦いで、ビジターに負けたのです。戦争が長期化すると食糧の補給、兵器の補給、ゲリラ戦などで侵攻軍が不利になっていきます。しかし、中国(清朝)政府は和平を申し出て、「南京条約」という不平等な条約に調印することになります。

 中国(清朝)の正規軍は、「八旗」と「緑営」から構成されていました。「八旗」というのは、満州族固有の軍隊です。清朝は満州族が漢民族を支配した征服王朝であったのです。「緑営」は征服された「明」の軍隊を再編成して作られた漢民族の軍隊でした。

 中国には、「好人不当兵、好鉄不打釘(優秀な人は兵士にはならない、優良な鉄は釘にはされない)」という成句があるようで、中国軍の質は非常に低かったと言われています。

 広州の中国人たちは当然に清朝の臣民でしたが、経済的には欧米諸国との貿易に従事し、また、それによって利益を得ていました。広州の中心的な産業として貿易は位置していたのです。この者たちに中国政府への協力を求めることは望めなかったのです。イギリス軍に協力する者たちが多数現れました。外国貿易の周辺にいた広州の人たちは比較的正確に欧米諸国を理解しており、その実力についても知っていたと思われます。中国(清朝)政府に対して「面従腹背」であったことでしょう。



(中国文化研究院のページにある「清朝軍力」の記述です。)

 軍艦6隻などからなるイギリス艦隊は、北上して北京に迫り、渤海湾の大沽(ターク)でパーマストン外相から中国宰相に宛てた書簡を手渡し、回答を求めます。このアヘン戦争は、1842年7月24日、南京条約が締結されるまで、2年近く続くことになります。林則徐を処罰することで戦争を回避できると中国政府は当初考えたのですが、この戦争の目的の一つに香港島の割譲があることを中国政府はやがて知ることになります。

 林則徐に代わって欽差大臣に任命された善とイギリスの次席全権チャールズ・エリオットの交渉が1840年11月にもたれ、その席で伝えられていました。

 1841年1月4日、イギリス軍は香港島を占領しました。こうして香港の運命は決まっていきます。

 本文の記載は、白帝社の中国歴史人物選「林則徐」(奈良女子大学現副学長「井上裕正」著)に基づいています。

        (この項 健人のパパ)

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