goo blog サービス終了のお知らせ 

ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

美しい自分

2007年04月04日 | Weblog
ここまで来ると、言葉も無い。
「美しい自分探し」。
恥ずかしいと思わないのかね、そんな言葉をどうどう
と発することが。
そもそも、「自分探し」ということが、まるで当たり前
の事実のごとく思われてるのが、問題なのだが、規定事
実化というか、真理のように流通している便利な言葉は、
大体怪しいものなのだ。
その言葉によって、思考が誘導されていることに気付か
ず、まるで自分で考えたかのように錯覚し、本人の気分
は高揚するが、実は思考停止に陥っている、なんてこと
が多いのだ。
本人が充実感を味わうのだからそれで良いのではないか、
ということだけ見れば、他人がとやかく言うことでもな
いが、大体自分が良いと思うと、他人に奨めるのが人間
なので、「あなたも自分探ししたほうが良いんじゃない」
などということも言われかねない。
信じた人間の明快な論理(あまりに単純な)は、信じる
に足るほどの緻密さが無いのが普通。
個人のレベルに収めてほしいということなのだ。

たとえば中田が「自分探しのたびに出る」などと言った
時は、完全に「とほほほ」となった。
個人的評価はあの一言でがた落ちだった。
高揚、陶酔のにおいがしたのだが、そういうのは宗教的
空間ならば有効だったろう。
多くのファンがあの言葉で感動したと言う事実が、それを
物語っている。

で、今回の「美しい自分探し」だが、単なる「自分探し」
のさらに上を行っている。
恥の上塗り。
なんだか程度が低い。
「美しい自分」などという抽象表現でなんとなく納得さ
せようという、底の浅い魂胆がみえみえだ。
美至上主義か。
実際は、思想的な強制をしたいだけのことなんだろう。
人が統制された美を望んでいるだけなんじゃないのか。
「美しい日本」の彼が描いているイメージはそういうこ
とだろうと思う。

こちらが思う美しい日本は、もっと具体的に、ゴミが
路上に無い、不法投棄がない乱開発されてない野山、
広葉樹林の森、無秩序な建物が乱立しない郊外、つま
り自然が豊かに息づいている環境なのだが、基本的に
業者側の彼らからこういう具体的な話を聞くことはな
い。
これだけで、信じるに値しないのだが、そう思わない
人が多いという事実が、これまたどうにもこうにもな
のだ。

コメント