ひさしぶりにギャオで、黒沢清の「アカルイミライ」を
見た。
パソコン上(ノートパソコン)での日本映画は、音が小
さくそのままでは聞き取れない。
そこで、イヤホンを購入して、それに備えることにし
た。
しかし、そのイヤホンは、直接耳に挿入するタイプのも
ので、上手い具合に耳に収まらない。
何かコツでもあるのだろうか。
そんな、時々ずり落ちるイヤホンで、観賞と相成ったわ
けだ。
黒沢清という監督は、結構印象的な作品を作り続けてい
る監督で、今の日本の映画監督の中では才能ある一人で
はないだろうか。
今回の「アカルイミライ」も、他の作品と共通の、寡黙
な人間による饒舌ではない会話が、映画全体を覆ってい
る静謐な緊張感を支えている。
それこそが、この監督の映画の特徴であり、魅力なのだ
と思う。
ともすれば退屈になりがちな映画を、その緊張感故に、
別な次元に昇華してくれる(この部分適当)。
主演は「オダギリジョー」。
陰(屈折した闇を抱えた)のある主人公には最適だ。
役者は素材が命。
もしこれが、「妻夫木聡」だったりしたら、全く駄目
だったろうが、まずその前に、監督は選ぶのも大事な
仕事なので、そういうことはあるはずもないから、比
べること自体意味の無いことだった。
共演には、これまたこの手の映画には欠かせない「浅
野忠信」。
役者は素材が命だ。
「アカルイミライ」という題名は、完全に逆説的なタ
イトルで、内容は明るくないもののオンパレード。
しかし今現在、郊外ではこれに近い現実が密かに進行
しているのではないかと思われるような、あるリアリ
ティを持っている。
根本的にコミュニケーションを取れない人間が、些細
なことで「殺意」を持つ。
その殺意によって、同じような人間が、お互いの存在
を確認する。
ここで一瞬コミュニケーションが成立する。
しかし、その殺意は、お互いに向く可能性も秘めてい
る。
階層化社会は、こんな人間を製造しているのではない
か、と、つい今の社会に照らし合わせて考えてしまうほ
ど、今日的テーマが表出している。
特に、毒を持った「クラゲ」が増殖していくシーンな
どは、いろんな解釈ができそうだ。
しかし、そういうテーマとか解釈は映画にとって必要
なものとも思えない。
ここは、ただひたすら、その不気味さを感じていれば
良いのではないか。
そして「アカルイミライ」と唱えれば、きっと「アカ
ルイミライ」が訪れるであろう(なわけない)。