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ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

3.4コラージュ

2010年03月05日 | 芸術


例の国際便のポスターだが、厚紙に挟んで
送ってきたので、その厚紙に住所やらいろ
んな情報の用紙がベタベタ貼ってある。そ
の張り具合があまりに良いので、それを使っ
てコラージュを作ってみた(写真)。最初
の状態である意味コラージュなのだが、更
にそこにいろいろ足したわけだが、これが
結構良かった(と自分では思ってるのだが)。
しかしこの切ったり貼ったりの作業、手作
業となると、パソコン上と違い何どもやり
直すことができない。そこが難しいところ
でもあり且つ手作業の良いところでもある。
それにしても、最初の時点での無意識に貼っ
た用紙の微妙に真っ直ぐではない並びとか、
「do not bend」の色と貼り位置とか、何
故絶妙と感じるのか。更にそこに意識的に
加える作業、こういうのも創作活動と世間
では言ってくれるのだろうか。
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ビュトール「心変わり」

2010年01月26日 | 芸術


ビュトールの「心変わり」をやっと読了し
た。随分長い道のりだったので確認してみ
ると、去年の八月の時点で残り100ページ
という状況であった。ということは、100ペ
ージ読むのに4ヶ月以上かかったというこ
とになる。これは、今までの記録かもしれ
ない。しかし、普通はこれだけ空くと大体
は放棄という事になると思う。心当たりの
あるのは「ユリシーズ」。あれはもう、数
年そういう状態である。では今回は何が違っ
ていたのだろうか。

一番大事なのは、基本的に面白いと思って
いるかどうか。これに関しては「心変わり」
に対して心変わりはなかった。後は、この
小説の特殊な部分とも言える個性に理由が
ある。まず登場人物が三人ほどで、これは固
有名詞が与えられているという程度の意味
で、実質は主人公の独白のみで成り立って
いるといって良い。しかもその全てがパリ
発ローマ行きの列車内の出来事(殆は主人
公の想像)。つまり、人間関係が複雑で誰
が誰だか分からなくなるということはなく、
展開がどうなるのかという物語的な起承転
結もないので、いわゆる筋書きが分からな
くなるという、一般的な小説的ポイントは
全く関係ないので、時間が空いたところで
訳が分からなくなるということは一切ない
のだ。これが、この小説の特殊性だ。

となると、そんなものが果たして面白いか
ということになるが、面白いんだからしょ
うがない。延々と繰り返される同じような
ことが、徐々に変奏していく世界を体験す
る面白さ、物語の面白さしか理解できない
人にとっては多分苦痛以外のなにものでも
ないだろうが、個人的には小説の面白さは
こういう世界にこそあると思っている。わ
くわくするという感覚だけが面白さではな
いのだ。
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ヤゴの作品

2009年10月02日 | 芸術


今年に入って二回目か、久しぶりにラーメンプラス餃
子という、嘗ての黄金の組み合わせをラーメン屋で注
文した(餃子を外で食べたのは今年初めて)。
普通の味で問題はないのだが、そのあと暫くして異常
に喉が渇いたのには参った。
化学調味料に体が反応してしまったのだろうか。
そこまで敏感とは思わないが、他に原因も思い浮かば
ない。

そんな喉が渇いた状態で、ふと、ヤゴの抜け殻を写真
に撮って記録しようと思い、手近なところにあった紙
の上に並べた。
バランスを考え、いろいろ微妙に動かしながらの作業
をするのだが、抜け殻ゆえちゃんと背中が上に向かわ
ないものもあり、なかなかバシッと決まらない。
記録用なのだから、等間隔に並べれば良いものを、何
となく美的にしようなどと思ったのが間違いだった。
他のオブジェなども混ぜたりして、いよいよ収集がつ
かない状態になってきた。
そして何とか撮ったはいいが、これがまた全くイメー
ジとは違い、どうにもしょうもないもので、記録にし
ては鮮明さが足らないしで(フラッシュを焚かなかっ
たのでどうしてもブレが、こういう場合三脚は必須だ)、
結果徒労に終わった。
しかし、何とかその写真を使えないかという未練のも
と、作品、のようなものにしたのが本日の画像。
ヤゴが恐竜に見えるのがご愛嬌。
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読書.ビュトール

2009年08月25日 | 芸術


以前買った文庫本、フローベールの「感情教育」は直
ぐに読了となったのだが、一緒に買ったミシェル.ビュ
トールの「心変わり」はまだ終了しない。
因みに長さは、「感情教育」が400ページ二巻で「心変
わり」は450ページほど。
断然短いのだが、速度は三分の一位になっている。
つくづく本というのは長さではないと感じる。

現時点で330ページ目辺りだから、あと100ページで終わ
るのだが、これがなかなか一気には行かない。
全てがパリ発ローマ行きの車中での回想、現在の描写、
そして予想されるこれからの話で、その独白を延々と綴
るという、実に変化のない話で、物語としての面白さは
全くない。
流石、ヌーヴォーロマンである。
だから、時間をかけて読んでも、展開がどうだったか、
或いはこれ誰だっけと覚える必要がないので問題ない
のだが(何せ3人の名前を覚えるだけで充分)、10ペー
ジも読むと眠くなってしまうのだ。
疲れているときに、ミニマルミュージック、例えばスティ
ーヴ.ライヒを聴くと直ぐ眠くなるというのと同じパタ
ーンだ。

考えてみれば、ロブ=グリエの小説も、同じような場面
の繰り返しで眠気を誘う。
基本的にわくわくさせる物語ではないところにその理由
はありそうだが、それこそが魅力といえるから困ったも
のである。
眠くはなるが、詰まらないわけではないのだ。
これでしか体験できない世界があるのだ。
ジョイスの「ユリシーズ」は途中で脱落だったが、「心
変わり」はそうならない。
尤も「ユリシーズ」も一巻は読んだので、「心変わり」
の全部以上は読んだことになる。
「ユリシーズ」も一日だけの話だったし、その変化のな
さは共通している。
ということは「ユリシーズ」の場合、登場人物も多く、
引用が多すぎたのが付いていけなかった理由か、と今
になって思う。
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現代美術の旅

2009年06月08日 | 芸術


ゲロゲロ少年Yは、現代美術巡りをしてきたらしい。
そのコースというのが、本当よくやるよと思うような
ものだった。

まず軽井沢の「セゾン美術館」に行く。
マン.レイ、ジャスパー.ジョーンズと有名どころが
一通り揃っているので、そういうのが好きな人にとっ
ては必見の美術館だ。
Yは初めて行ったらしく、その内容と、建物含め周辺の
環境にいたく感激の様子。
特にどの作品に感激したかは聞き忘れた。
そして次に向かったのは清里にある「清里現代美術館」。
ここは規模は小さいが(個人でやっているので)、「ボ
イス」が充実している個性的な美術館だ。
軽井沢からだと、八ヶ岳に沿って、小海線と同じコース
を辿る。
結構距離はある。
本人もやってみてここまで遠いとは思ってなかったよ
うだ。
そこでYは、美術館の関係者(館長か誰か)と、現代美
術および芸術の行く末について語ったらしい。
二時間ほど。

そして最後に向かったのは、小淵沢にある「中村キース.
ヘリング美術館」。
ここに関しては、周辺を何度も通っているが入ったこと
は無い。
以前からYに、どうなんですか?と聞かれていたが、元々
キース.ヘリングには特別興味はなかったで、自分の目
で確かめれば、と言っていた。
それが今回、美術館めぐりの掉尾を飾る場所となった。
Yがここに着いたのは、閉館間際。
朝七時に家を発ち、すでに夕方五時。
現代美術だけで、これだけ広範囲に周る人間もいないだ
ろう(八ヶ岳を一周したことになる)。
ここも、建物作品、周辺の環境含め良かったです、とY
の感想であった。
一般にイメージする、ポップで軽いだけではないキース.
ヘリングの作品に出会える、らしい。

そして今回、全てに共通するのは、兎に角、人がいない
ということであった。
「阿修羅像」とは偉い違いだ。
別に普段の興福寺に行って見れば良いと思うのだが、こ
ういう演出をすると何故か人が殺到する。
わざわざ混雑の中見ることもないのに、というのは余計
なお世話か。
現代美術ではまず有り得ないことだ。
村上隆だったら可能性ありか。
しかし、あれがはたして芸術か、という問題があった。
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感情教育

2009年05月02日 | 芸術


布袋様の投入効果か、ここにきて「滝壺ビオトープ」の
水質は一気に改善されてきた。
透明度も上がり、臭いも収まってきた。
一体どういうメカニズムが働いたのか、何はともあれ
めでたしめでたしである。
これで、三匹となった「ヒメダカ」も大丈夫だと思う(呆
気なくヤゴの餌になる可能性はあるが)。
こうなると、また何か他の生き物を入れたくなるが、
ここは我慢。
余計なことはしないのが一番である。
折角の平衡状態なのだから。

フローベールの「感情教育」は、上を読み終わったと
ころ。
この手の小説につきものの、名前と人物が一致するま
でに時間がかかるというのは、今回も経験。
しかも、この小説、その人物の名前が突然愛称になっ
たり本来の名前(多分)になったり、職業で呼んだり、
実に紛らわしい。
この点では、かなり混乱する小説と言えるかもしれな
い。
一瞬、今のは誰だ、と思うようなことが多々あるのだ。
しかも時代は、1800年代のフランス。
貴族の社交的生活様式が、日本人の感覚からすると分
かり辛いというのもあり、結構読むのは大変と思われ
る。
プルーストはフローベールを高く評価していたらしい
が、何となくその辺は理解できる。
特別なことが起きるわけでもない世界を、ぐだぐだ執
拗に描くというのは、両者に共通している部分でもあ
る。
日本人の作家であれば志賀直哉か。

主人公に共感出来るか出来ないかという、表面的な捉
え方だと全く詰まらない小説かと思うが、或いは、わ
くわくする物語という意味でもそうだろう。
しかし、「失われた時を求めて」でも同じことがいえ
るのだが、時代、国、人間が違っても、普遍的な世界
が自ずから立ち上がるという点では、をそれらの小
説に共通することで、またそれは優れている証拠でも
あろう。
いうなれば、「小津安二郎」「ホウ.シャオシェン」
「エリック.ロメール」の世界である。
今回は特にその映画的なものを意識したのだが、それ
は単純に、最近観たロメールの「グレースと公爵」が
影響していたのかもしれない。


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コラージュ

2009年01月23日 | 芸術


以前仕上げた、と思った「コラージュ」を眺めていた
ら、どうも違う。
これで完成であったはずなのだが、徐々にそんな気持
ちも薄れ、再び手をかけたくなるというのはよくある
ことで、その後よくなれば良かった良かったというこ
とになるが、その結果、どうしようもなくなって廃棄
なんてことも多く(あくまでも自分の基準での話し)、
実際に手をかけるかどうかはちょっとしたギャンブル
的なところがある。

で、今回はやることにした。
そもそもその作品のベースになっているのは、もう20年
近く前に実際描いた水彩だ。
その上に、いろいろ切り貼りしたのである。
その切り貼りの元は、二三年前に作った写真を元にし
たコラージュをプリントしたものである。
コラージュを切って、再びコラージュにする。
どこまで行ってもコラージュ。
コラージュは手法だから当たり前の話だが、製作日数に
関しては大層なこととなる。
何せ20年だから(実労は大したことないが)。

再び、元となるプリントを探す。
わざわざプリントして、全くよくこんなものをプリント
したものであると今は思うものがまだまだあり、素材
には事欠かない。
これも一種の廃物利用である。
リサイクルだ。
適当な色合いの部分を鋏で切り、作品の上に置き位置
を決める。
ここで、ああでもないこうでもないとなるわけだが、微
妙な位置関係というものが発生して、なかなか決まら
なくなる瞬間である。
そうこうしていく内に、自分の基準が揺れてくる。
どういうのが良いのか判らなくなってくるのだ。
感覚が鈍ってくる状態というのだろうか。
それで、もうあるところで決めて実際に貼り付ける。
で、また暫く置いて、違うとなったらまたその時はそ
の時であると思うのだ。

というわけで、一応完成はしたのだが、改めて見てみ
てどうなのかと、またまた自分自身に問うこととなる
のである。
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詩.のようなもの2

2008年12月31日 | 芸術


暮れにかけて腰痛が悪化、なんだか締まらない年で今
年も終わりそうだ。
子供のころに輝いていた正月は、一体どこに消えてし
まったのだろう。
あの麦藁帽子と一緒に、空のかなたに消えたのだろう
か。

彼は、永遠を見つけたのか。
あの、飛行機雲を見よ。
蒼ざめた人の軌跡が見えるか。
ひょっとすると、地上に下りてくるかもしれない。
私は当てもなく待ち続ける。
ざわめきは水の粒子となって飛び散る。
粒子の合間をシオカラトンボがすり抜ける。
ぶつかった粒子はウンカに変身。
ウンカは群れとなり、青空に向かっていく。
あの雲との出会い。
彼らは、出会った。
とうとう見つけた。
何を。
永遠を。

どうも「詩.のようなもの」を書くと「地獄の季節」に
なってしまう。
何でこんなことになったかと考えると、この前、BSの1
と2の間の教育番組みたいな正式名称は判らない番組
をふと見ると、「マラルメ」を扱っていて、「マラル
メ」自体は名前しか知らないが、エリック.ロメール
が監督をした「マラルメとの会話」という、全く世に
でたことないような珍しい映画を流したので、ついつ
い見て、結果マラルメの詩に対する考え方などを勉強
してしまったからだ。
「高踏派」がどうのこうのといろいろ言っていたが、す
でに殆ど忘れてしまったから、正確には単に見ただけと
言ったほうが良い。
しかし、久しぶりに「ランボー」以外の詩には接した。

ということで、「詩.のようなもの」となったわけだ
が、相変わらず、詩というものには今一つピンとこな
い。
世に受けている一行詩のようなものは問題外だが、マラ
ルメにしろリルケにしろ、良いのか悪いのか今ひとつ
確信をもてないのだ。
単なる、詩に対する感性の欠如だろうか。


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若い芸術家の肖像

2008年12月10日 | 芸術


その後、まだ本の整理をしたのだが、全体では全く減っ
た気配がない。
やるなら本格的にしないと駄目なようだ。
十数冊処分したところで、大勢には影響がないという
ことだ。
しかし、見る度に、取っておいてもしょうがないとい
う思いばかりが襲ってくる。
古本屋に持っていっても、二束三文のものばかりなの
だから、捨てればいいだけなのだが、どうも踏ん切り
がつかない。
飾り用というか、思い入れの強いものだけにすれば、
今の四分の一で済む。
ということは、本棚一つに余裕で収まる。
五分の一かな。
埃の温床になるだけなんだから。

自分は本好きの部類には入らないと思うが、岩所謂本
好きの人ならこんなものでは済まないだろう。
例えば文庫本などどうしているのだろうか。
元々が保存性はよくないのだから、取っておくもので
はないかも知れないが、結構皆取っているようにも見
える。
本好きほど愛着があるだろうから、より捨てられない
というのはあるのではないだろうか。
本と一緒に殉教。
気付いたら、本の海の中で息絶えていた、なんて話も
生まれそうだ。
物語の海で生まれた物語、なんてね。

と言いながら、T君のとこから一冊文庫の古本を購入
した。
勿論100円均一。
ジョイスの「若い芸術家の肖像」という本。
兎に角ジョイスに関しては鬼門で、「フィネガンズウェ
イク」にしろ「ユリシーズ」にしろ、途中で断念が続
いている。
「ダブリン市民」だけだ、ちゃんと読んだのは。
にも拘らずまた何故ジョイスかというと、興味だけは
未だあるのだ。
未練があると言った方が正確かもしれない。
で、この「若い芸術家の肖像」だが、途中断念のシリー
ズとは違って、言葉遊びや、引用はそれ程多くない。
つまり、読みやすいのだ。
T君がこの本を買った理由は、訳が「丸谷才一」だっ
たということだが、そんな理由でジョイスかとも思っ
たが、動機は人それぞれだ。
考えてみれば、今年読んだ小説は、ストローブ=ユイレ
の映画「アメリカ.階級関係」と比較するために読ん
だ、二度目のカフカ「アメリカ」ぐらいしかなかった。
そして二冊目がこれ。
一応、カフカとジョイスしか読まなかった、とは言え
る。
間違いではない。
実際は二冊だけだが、実体を知らなければ、何だか本
格派と見栄を張れそうな読書体験である。

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写真が作品になる時

2008年12月02日 | 芸術


このところ使っている画像の元(11月23日の)を、試
しにプリントしてみた。
A-4サイズで(今使っているプリンターは、A-3まで可
能なのだが、まず用紙がないということと、プリント
してもリスクの方が大きいので、つまり、プリントす
るほどのものではないということになりかねないので、
いまだ、A-3ではプリントしたことがない)。
写真として、観るに耐えるかということでプリントし
たのだが、見た目よりちょっとシャープさがかけるの
で、コントラストは強めに。
結局は、どこかいじり調整するのである。
で、できた写真はどうなのかということだが、単なる
古い建物の壁と窓の写真である。

例えば、これにタイトル「100年の孤独」などとつけた
ら、それらしくなるのだろうと思う。
或いは「視線の凍結」などという抽象的なものを付け
れば、一生懸命なにかを読み取ろうとするのではない
か。
いずれにしろ、類型的なものに感じるのだが、作品と
いう名が付き、それにタイトルがあれば、人はそうい
う風に何かを見ようとする。
額に入れた時点で、作品に変わるので、境界は額とい
うことになる。
これは、飽くまでも見る側の境界だ。

ここで気をつけないといけないのは、タイトルもちゃ
んと入れることだ。
それをしないと、単なる自分の趣味でお気に入りを飾っ
ているという、作品としての格がでてこない。
そこで、間違っても「晩秋」「秋の日差し」などと直
接的なものはつけてはいけない。
もしそういうタイトルにすると、写真趣味のサークル
の中で完結してしまう、よくあるというか、一番一般
的な写真となってしまう。
秋の日差しがよく表現されている、などと評されるの
が落ちである。
別にそれでも良いと言えば良いのだが、ここでは、写
真がより芸術よりに見られることを前提として話を進
めたい。

とここで気付いた、一体私は何を言いたいのか。
単に、写真をプリントしたという話であったのだ。
別に、写真芸術論ではなかった。
それに、写真に対していろいろ知っているわけでもな
いし、写真の芸術性というものも、今ひとつ解らない
し、書くほどのものを持ってなかった。
そして何より、写真に対してそんなに思い入れもなかっ
た。
写真好きからすると、資格がないと言われる部類の人
間であったのだ。
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コラージュ.オン.コラージュ

2008年12月01日 | 芸術


このところ、同じ画像(正確には、基が同じ)ばかり
続いているが、それは、他の画像がないからというあ
まりに当たり前の理由によるもの。
ちょっとした使い回し状態だ。
寒くなると、どうしても外に出る機会が減る。
田舎の場合、街歩きの楽しみというのは、あまりない。
となれば、山とか川とかそういう自然の場所になるの
だが、そういうところはますます寒いので、結局、こ
の時期になると一気に手持ちの写真が寂しくなること
になる。
軟弱派としては、暖かい室内が良いのである。

そこで、パソコンでは手軽にやっているコラージュを、
たまには手作業でやってみようかという気になる。
パソコンで写真や他の画像を使いの作業は、あまりに
手軽過ぎて、これははたして創作活動か、と思うこと
があるのだ。
写真というのが、そもそも銀塩の化学反応であるの
だから、それがデジタルになったところで本質的な変
わりはないと思うのだが(人それぞれの捉え方がある)
、それを使い更にいじくると、基の写真は一体どんな
意味があるのかと考える時がある。
結局はデジタル信号の色の集合体であるので、基の写
真も単なる素材であると考えれば、なんら疑問はない
が、例えば、撮った写真のみの場合はどうなるだろう
か。

デジタル処理で、コントラストや明るさ色を変え、一
つの作品として見たのと、撮る時に、絞りやシャッター
スピードを変えある効果を狙ったフィルムの写真は、
果たして違うのか。
フィルムの場合は、自然のままと言われるが、人工的
な作業を経ての結果なのだから、決して思われてるほ
ど自然のままではない。
となると、やはり、変わりはない、か?
質感が違うとか、拘り派としてはいろいろ言いたいこ
とがあるだろうが、どっちも人工的なものという点で
は同じ気がする。

と、言いたいことは写真に関してではなかった、コラー
ジュだ。
コラージュの場合は、全てが素材なので、そんなこと
はどうでもいいことである。
最近ではその素材が、かつてプリントしたA-2、A-3の
パソコンで作ったもの。
作った当時は、それ自体で結構良いと思っていたのだ
が、時間が経つにつれ今ひとつということになり、今
度は一素材として活用される(残念ながらそんな作品
から素材に格下げのものが多い)。
これも一種のリサイクルだ。
元々がコラージュなので、結果、コラージュオンコラー
ジュということになる。
デジタルのコラージュが、手作業のコラージュとして
再びコラージュとして出現だ。
どこまで行ってもコラージュだ、と一人ほくそえんで
いるのだが。
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クリスト

2008年09月19日 | 芸術


昨日の続き

お目当ての「シルビアシジミ」は、結局、怪しいのが
一頭いただけ。
その一頭も、裏を確認している間に逃げられてしまっ
た。
とりあえず撮影、というのをもっと徹底しないといけ
ない。
結論としては、この場所は、ブログの写真とは違うと
いうことだ。
こうなったら、もう一度検討作業をせねばなるまい。

現場を後にして、昼飯を食べることにする。
初めてということもあるだろうが、甲府盆地の道路は
判りにくい。
郊外には、新しい道路が増殖し、旧道は曲がりくねっ
てるしで、地図がなかったらお手上げである。
事前にいくつか候補を考えていて、その中の一つ「山
梨医科大」近くの「フランス家庭料理」を出す店に行
くことにした。

店には、まあ、わりにすんなり到着した。
小さな店で、フランス人の女性が切り盛りしている。
ランチの魚(ブリ)コースを頼む。
カボチャのスープに、ブリのポワレ、それにココナッ
ツのケーキ、コーヒーという内容だ。
スープは、しっかりしたフォンを感じさせる、普通に
美味しいものだった(ちょっと意外)。
ブリは、これぞ確かに家庭料理という感じの、ソース
は簡単なツブマスタードを使ったもの、付けあわせは
ジャガイモ、それとキャベツをくたくたに煮たもので、
ファミリーレストランではあり得ない、フランス的な
ものだった(味については、特にない)。
個人的には、もっと郷土色(フランスの)を出してほ
しいのだが、そんなものを出しても受けるわけがない
ので、この希望は単なる夢想の類である
それより、どういう経緯で甲府辺りで店をやるように
なったのか、そっちのほうが気になる。

店を後にして、後は甲州街道に出て下るだけだ。
適当に、街道方向に向かう。
予定通りに合流し、後は、いつもの道をひたすら走る。
韮崎を過ぎた辺りに、見るたびに気になっていた、街
道沿いの小さな公園がある。
何故かというと、そこに立っているパラソル上の固定
された傘が、「クリスト」のアンブレラに見えてしょ
うがないのだ。
いつか写真に撮ろうと思っていて、中々チャンスがな
かったのだが、正にチャンス到来である。
というか、家を出る時から撮ろうと思っていたのだ。
で、その写真が本日の画像。
「at random」の配置がいいのだが、写真で見るとそ
れ程でもないところが、この手の宿命だ。

コメント

JUDO.神聖喜劇

2008年08月11日 | 芸術


昨日、「JUDO」に関して、今の形で普及しても意味
がないというようなことを書いたら、「内柴」が金メダ
ルを取った。
なんだかんだ言いながら嬉しいのが、自分自身、まだま
だ修行が足りない証拠である。
しかし、「内柴」と「中村」もそうだったが、メダル
を取った瞬間の態度は、「内に秘めたものを感じる」と
いうもので、グローバルには伝わらないがなかなか良
かったのではないか。
でも、自説は変えない。

どこも同じなので「教育テレビ」を見ると、確か再放送
かと思ったが、「大西巨人」の「神聖喜劇特集」をやっ
ていた。
どこかで聞いたことのある名前を読んでいたので気付い
たのだ。
番組は、朗読スタイルでその「神聖喜劇」の一部を紹介
しているので、登場人物の名前も当然のこと読まれる
のだ。
「東堂太郎」が主人公の名前。
今や忘れえぬ名前に近い。
彼を「西島秀俊」という俳優が担当。
この役者は、どことなく影があり、他の役者と比べる
と常に印象的である。
つまり、日本の役者の中では魅力がある方だと思う。
単なるタレントのナビゲーターではなく、本人もこの
小説に興味があるらしく、「大西巨人」に直接話も聞
いている。
民放の、客寄せリポーターとは一線を画す、知性を感
じた。

小説は、「対馬」の軍事教練所が舞台で、軍隊の理不
尽な世界、不条理が話の中心になっているのだが、主
人公の冷徹な目と行動を通し、徐々にそれらが明るみ
になっていく。
それは、痛快ですらある。
しかし、この小説は「対馬」という閉ざされた世界だ
けを描いているわけではない。
小さな島の軍隊を通し、世界を描いているのだ。
ここが、いい小説とそうではない小説の分岐点だろう。
舞台は小さくても世界に通じている、そう感じさせる
のが優れた小説というものだろう。

過去10年で読んだ日本の小説のベストは、この「神
聖喜劇」か大岡昇平の「レイテ戦記」である。
奇しくも、両方軍隊が題材だが、それは単なる偶然だ。
あと、その10年で読んだ日本の小説は、全て含めて
も10冊ないかもしれないので、自ずと全てがベスト
テンに入る可能性があるという事実も付け加えておか
ないといけない。

今思い出したが、主人公の東堂は、柔道も強かった。
一応繋がっていたか。
コメント

カフカ「アメリカ」

2008年07月18日 | 芸術


「滝壺ビオトープ日記」
姿が見えないと思っていた巻貝(多分、サカマキガイと
いう外来種)は、ちゃんと生きていた。
貝のくせに活発に動き回るので発見しにくかったのだ。
これはひょっとして、環境的に合っていないことによる
行動なのかもしれない。

ところで、この前カフカの「アメリカ」を読み終えたと
き、同じくカフカの「城」に挑戦して、その三分の一か
ら進んでいないmのことを思い出した。
このところ顔を見ていないので、ひょっとして死んでい
るのではないかと思いメールをすると、生きてはいるよ
うであった。
「城」よりは「アメリカ」の方が読み易かったかもしれ
ないので、先にこちらを推薦しておくべきだったか。
遺品に読みかけの「城」というのも、なかなか文学的
な感じはするが。

「アメリカ」が「城」や「審判」に比べて読みやすいの
は、「ロードムービー」のようなストーリー展開になっ
ているからだ。
他の作品は、同じ場所で延々同じことを繰り返している
ような(その眩暈の感覚が魅力的といえるのだが)作品
だが、この「アメリカ」は、主人公が移動していった先
々でいろんな体験をするという、ストーリーの構造とし
てはオーソドックスなものを持っている。
だから「ロードムービー」的であるのだ。

小学生の読書感想文的にまとめてみる。

主人公「カール.ロスマン」(この名前、もう一生忘
れなさそう)は、お手伝いを孕ませたことによって、
父親から半ば厄介払いされ、単独アメリカに船で渡る。
その船中での、火夫とのやり取りが第一章。
その火夫の労働条件などを抗議しに船長室に行くと、
そこでカールは、音信普通だった、アメリカで事業で
成功して今は国会議員までやっている彼の叔父に会う。
お手伝いによって、甥がアメリカに行くことを知らさ
れていて迎へに来ていたのだった。

叔父のところに厄介になり、英語の勉強もしてニュー
ヨークの生活にもにも慣れてきた。
そんなある時、叔父の知り合いの、郊外の家に招待さ
れる。
そこで、カールは家の娘に柔術でやられる。
とこれは、本筋には関係ないエピソードだが、そんな
関係ないエピソードの集合体がカフカの全体の小説世
界であるのだ。
その家にいるとき、何故か叔父が、カールと縁を切る宣
言を他の者に託し伝える(唐突である)。
後ろ盾がなくなったカールは、仕事を探すため、ある
町に向かう。

最初の安宿で、同じく職探しの二人組のフランス人と
アイルランド人に合う。
彼らと暫く行動を共にするが、信用できずに別れ、カー
ルは親切な同郷の大きなホテルの料理主任の女性に誘
われ、そのホテルのエレベーターボーイとして勤めるこ
とになる。
そのホテルの名は「HOTEL Occidental」。
そこはエレベーターボーイだけで数百人という、巨大
なホテル(決して現実的な話ではない)。
真面目に働いていたある日、別れたアイルランド人が
カールに会いに来る。
しかし彼は泥酔し、ホテルに迷惑をかける。
その彼を連れて行くために職場を離れたカールは、職
場放棄とみなされホテルを首になる。
アイルランド人の目的は、カールをホテルから連れ出
すことであったのだ。

彼は、もう一人のフランス人とあるマンションに住ん
でいた。
フランス人が、歌手の紐のような存在となっていて、
その歌手の身の回りのお世話をする人間を探していた
のだ。
それで、カールが狙われていたのだ。
結局、彼らの策略で、奴隷のような囚われの身分となっ
てしまったカール。
しかし、どうにかこの身分から開放されたい。
そんな時、ある巨大な劇場の団員募集の張り紙を見つ
ける。
一日限りの、誰でも採用されるという募集。
勇躍乗り込んで、採用されることになったカールは、
すぐさまその劇場のある町に向かうため列車に乗り込
む。
そして、その車中の話で小説は終わる。

聞くところによると、小説は途中であるらしいが、こ
れこそがカフカらしい終わり方であると思う。
決して目的地に辿り着けない男の物語、終いには、目
的地の意味すらなくなる。
そうやって見ればこの「アメリカ」も、読みやすいが
というのもおかしいが、充分カフカの世界を味わえる
小説である。
それに改めて感じたのは、ストローブ=ユイレの「階級
関係アメリカ」が、如何に小説の世界をそのまま現して
いるかということだ。
オーソン.ウェルズの「審判」とストロ-ブ=ユイレの
「階級関係アメリカ」、間違いなくカフカ映画の二大
金字塔である。
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サッカーとカフカ

2008年06月15日 | 芸術


ということで、3-0でタイに勝った日本代表は、最
終予選進出を決めたわけだが、どうなんだろう。
セットプレー以外で点を入れそうな気配がない今の日
本代表を見ていると、今ひとつ、これ以上良くなると
いう可能性を感じないのだ。
待ってパスを受けるシーンばかりが目立ち、印象とし
ては兎に角動かない。
ダイナミックな動きは全く見えないのではないか。
唯一、中村憲剛の得点の時がそれらしいシーンだった。
オシムが気に入って使った選手というのが、ちょっと
皮肉である。
タイくらいの相手なら、このままでいいだろうが、こ
の先を考えるとまずいのではないかと、昨日の試合を
見ながら思った。
U23は、初期に比べると大分進歩し、全体が兎に角
連動している。
チームとしての良い方向というものを感じることが出
来るが、果たして岡ちゃんに、確固たる方向性と、そ
れを実現させる方法論があるのかが問題だ。
ジーコの二の舞になるのだけは勘弁して。

さて、カフカの「アメリカ」だが、どうやら興味の方
が上回ったらしく、読み返している状態だ。
角川文庫の本で、表紙は池田満寿夫の「エッチング」の
ようである。
多分初期から中期という時期のものだと思うが、この
辺りの作品は割りに好きなものが多い。
この表紙も、中々良い。
「エッチング」で有名なのは、今は「山本容子」あた
りだと思うが、例えば本の表紙としては彼女のものの
ほうが合うというか、実際多くあるのではないか。
トルーマン.カポーティの何かの本がふっと浮かんだ
り(見かけただけで読んだことはない)、と彼女の作
品は本屋でよく見かけるというイメージである。
しかし、カフカに合うとは思わない。
今回の池田満寿夫の作品は、彼女の作品にぐっと芸術
性を加味したという感じで、カフカにも合っている。
と、久しぶりに手に取ったらそう感じた。
印刷を確認すると、15年ほど前のものだ。
もっと、昔の話かと思っていたが、それほどでもなかっ
たわけだ。

ストローブ=ユイレの映像と比較しながら読み返すの
も、なかなか興味深い。
改めて映画のほうは、原作と違うところがあるのは当
然として、原作の世界が自然に映像になって表現され
ていると、素直に感じられるものである。
ありがちな、類型的な迷宮の世界になっていないのは
流石である。
しかし、原作は原作である。
文字から喚起されるイメージは限定されるののではな
い。
映画を観て、初めてカフカのこの小説を読んだとした
ら、ストローブ=ユイレの映像が強くて、自由に読め
ない可能性がある。
それは、ストロ-ブ=ユイレ、カフカ両者にとって本望
ではないだろう。
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