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ricetta della vita

イタリア料理教室「COMODO」主宰 
美味しい話をしましょう

無邪気と意地悪と須賀敦子さん

2014-12-20 | 日記・エッセイ・コラム
子どもの頃、ピアノを習っていた。「無邪気」という曲を弾いていたときのこと、母がとても気に入っていて「あの曲いいね。なんだっけ名前は…あ、そうそう、意地悪っていう曲」と!母よ、何度それを否定したことか!彼女の中では“無邪気”と“意地悪”という言葉は同義語なんでしょうか?きっと今でもそう思っているにちがいない!

ピアノにはあまり熱心には取り組んでいなかった(ことのほか基礎練習が大嫌いで、、、ただ指を動かすだけの練習というのががねえ、必要なのはわかってたんだけどホント身につきませんでした!)が、曲に名前がついているときはわりとまじめにやってました。例えば、バイエル(今は呼び方違うかな?)の中に「貴婦人の乗馬」という曲があって、これは大好きだった。最初は遠くからかすかにリズムを刻みながら馬が軽やかに駆けてきて、近づいてくるとよりテンポがはっきりして快活になり、途中で転調してどこか物憂げでさびしそうな表情が見える、そんな曲です。クラッシックはやはり基本がヨーロッパですから、小学生が弾けちゃうレベルの曲であってもこんなたいそうなタイトルがついていて、あろうはずもない乗馬の経験や、周りにいるはずもない貴婦人のすを想像して弾いていたのかなと思ったりもします。

ところで、音楽に限らず、誰かの何かを理解するには、ある程度のところまでは想像することで近づくことができるだろう。しかし、その先は自分の中に培った経験や知識がないと、その想像とうまく結びつけることができない。正しく解釈することができない。例えば、イタリア好きならば当然読むべき(といわれている)須賀敦子さんですが、私は著書を数冊持っているのみです。そして、少し苦手でもある。なぜだろう?それは、読むための、読んで理解するためのものが足りていないからだ。イタリアの歴史、ヨーロッパ史、文化的背景など彼女の著書には恐ろしいほどのベースとなる情報が入っていて、とてもさらっとなんて読めるものではない。それでいてとても濃密なイタリアがぎゅーっと詰まっているので、彼女の著書を読むための準備運動はしっかりやらないといけない思っている。発信されている情報に対して受け手側がありきたりのわずかな知識しかなくて、字面だけを追って読んだなどと言うのは著者に対して失礼というものだ。

冒頭の、自分では「無邪気」を弾いているはずが、「意地悪」と聴こえてしまうのは、単なる私のピアノがひねくれて暴力的だったからに違いない。どおりであまり上達しなかったはずだ