全国高校野球選手権、高校球児達の熱闘が、まさに「君よ八月に熱くなれ~~」のごとく炎天下の中昨日から始まりましたが、peko地方代表校「智弁和歌山」は「一発」が出ずに早々と負けてしまいました。
今度は郷土の代表校「天理」を応援しないといけませんね~。
さてさて、今回は「熊野古道 中辺路(なかへち)」のほんとに一部分なんですが、「継桜(つぎざくら)王子社」周辺を散策した時の写真をUPしますね。
左の地図のパーキング(P)の傍の急な民家裏の道を右上に登り「古道」に出て少し下ると右の写真・・・
「藤原秀衡」が熊野参詣の折りに、使っていた桜の木の杖を「ヒノキ」に挿し木し、「乳岩においてきた赤子が死ぬならこの桜の木も枯れよう。熊野権現の御加護ありてもし命あるならこの桜も枯れないだろう」と祈り、旅を続け、帰り道、野中まで来ると桜の枝は見事について花を咲かせていたという「秀衡桜」と呼ばれている桜の木がありました。石には「奥州秀衡 三代桜」と刻まれています。
少し歩くと茅葺屋根の「とがのき茶屋」が。前の道が「古道」です。生活道路なので軽四も行き来してます。此方はこの日はお休みだったのかな?郷土料理(茶がゆ等)が食べれるようですよ。(要予約だそうです)
とがの木茶屋の直ぐそばにあった「継桜王子社」です。
継ぎ木はほぼ不可能だとされる桜なんですが、継桜の由来は「おそらくヒノキの老木の空洞に桜の苗が根を下ろしたのではないかと思われる」とあり、王子社の前にあったとされる古木は枯れて、初代紀州藩主「徳川頼宣」の命により山桜を代わりに植えられたそうで、その桜の古死後2代目も明治の水害で倒れ、その後100メートル東の古道端に植えられたのが現在の「秀衡桜」ということです。桜の継ぎ木という奇跡があって王子社が設けられる時名付けられたようですが、「継桜」と「秀衡」とが結び付き伝説となったようです。
石段を登る途中に振り返って撮ってます↑巨杉が両側に10本ほどあります。↑更に上に登ります。推定樹齢は800年等と言われています。こんなに登っても木陰なので、涼しくて汗は出ませんでしたよ。
社殿まで登りました。此方の「王子社」は若一王子権現ともいわれ、野中(地区)の氏神になっているようです。
石段を下りる途中で↑主人が居るところの杉の木を・・その巨木の近くまで行って上の方を撮ってみました。凄すぎます
此方の巨杉群は「野中の一方杉」といわれていて、杉のすべてが「熊野那智大社」のある方向(南)に枝を伸ばしていることから呼ばれているようです。日差しや地形の関係と、科学では言うのでしょうけれど、那智を遥拝しているかのように見ることができるということの方がなにかロマンがありますよね。
一方杉を後にして、歩いて来た方を振り返り「本宮」へと繋がる「熊野古道 中辺路」↑に立って、平安衣装を着た往時の旅人達が行きかう様を想像しながら、また涼を取るために「野中の清水」への近道を急ぎました。
次回も
そうですよね~
この時も30分程ゆっくりと散策しただけでしたので楽でしたが、コースになってるところでも1時間歩き続けるようですので、今の私の体力じゃ無理かもしれません。
私も若いころはリュックを背負ってよく歩いたものですが、もう、この体力では1度は登ってみたいと思ってる(思ってた)富士山も、諦めざるをえないですね。
今年は特に球児たちには酷ですよね~
一方杉があるこの辺りはほんとに鬱蒼としてまして、私達だけということもあって、ちょっとタイムスリップした様な感じで、石段を上ってました~
巨杉に囲まれてましたし、ほんとに涼しくていい気持ちでした~
智弁和歌山 残念でしたねぇ~てっきり上位に進むと思っていましたが・・
かくいう我が静岡代表も早々に初戦敗退しましたが来年に期待ですね?
さて熊野古道 一度はいにしえ人の歩いた熊野の空気を
体感してみたいと思っていますが、年々 低下する体力と気力に
なかなか足が向かいません…若かりし頃は山登りもしていたのですが
長年のデスクワークで落ち切った体力を取り戻すために
相当のトレーニングをしないといけません・・
体力・・・・・戻るかなぁ~~・・・ダミダコリャ!!!
智弁の敗退は少し予想外だったね~~
其れにしても此の猛暑の中で、幾ら練習をしていると言っても選手には酷ですよね・・・
我が子を思う優しい気持ちが表れた
挿し木の開花ですね~~
暖簾の横には「箕の傘」ですかね?
軒下でおかゆを頂きたかったですニャァ~
オォ~現実の由来を読むと夢が少し
壊れますニャァ~~
此の欄は飛ばして読みますか・・・ェヘェ
深い緑の中を歩いて、美味しい空気を吸って
木陰のそよ風で涼しいでしょう~
こんな凄い杉は見たことが無いですね
一番大きな杉では、高野山ぐらいですかね~