日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

米倉経団連会長にモノ申す!

2012-02-15 | 経営
東電の経営権をめぐる枝野発言を巡って、論賛否両が渦巻いています。中でも気になるのは、経団連米倉会長の「断固反対」発言。これにはいささか違和感を覚えています。

会長の論旨は、「民を官が牛耳るなどと言うのは勘違いも甚だしい。官が民の再建に手を出してうまくいったためしがない」と言うものです。確かに原則論から言えば、官が民の活動を制御しあれこれ茶々を入れるのは民の活力を削ぐことになり決して好ましいことではありません。しかし現状の東電は、言ってみれば「有事」にあるわけで、「有事」に「平時」の原則論が通用するものでないことぐらい、日本を代表する企業の経営者として十分おわかりいただけるハズと思うのですが…。

「官が民の再建に手を出してうまくいったためしがない」と言うのも、ひどい勘違い発言のように思われます。例え東電が一時国有化されたとしても、官僚や政治家が直接経営に携わるわけではなく、基本的には民間のプロ集団によって有効な再建策が策定され、国は株主として国民に代わってプランニングとその進行を監視する役割を担う形になるわけで、別に旧国鉄や民営化郵政のような会社を作ろうというわけじゃない。会長の懸念はどうも違うのではないかと。

むしろ、原発被災者の保障問題や日本の今後のエネルギー政策とも密接にからんだ今回の東電の「有事」は、一民間企業の問題として片付けてはいけないのだと思います。しかも、東電の勝手に任せておけば、自身の台所事情も十分に見せることなく安易な電気料金値上げという形で“国民負担”を強いることで問題を解決しようとする、こんなとんでもない企業だからこそ国の管理下で全てを白日の下に晒して、被災者を守り国民経済の健全性堅持を優先した再建をはかる必要があるのではないでしょうか。

こんなことを私ごときが言う前に、天下の経団連会長様は本当は全て分かっているハズなのではないかと思いますし、米倉会長の発言にはどうもしっくりこないものを感じます。裏に、大物会員企業である東電西沢社長からの「援護射撃」依頼でもあったのではないかとも思うのです。さらなる裏には電気料金を巡る個別の闇取引“経団連幹部企業価格”があるとか。もし仮にそうなら、経団連の信用失墜にもかかわるとんでもないことですが、確証はないので、この点についてはこれ以上はやめておきます。

いずれにしましても、世に東電一時国有化に関し賛否両論が戦わせられることは悪いこととは思いませんが、米倉会長の反対論旨のナンセンスさとその立場を踏まえた姿勢のあり様を考えるなら、早期に前言を撤回され「会員企業に関することであり、詳細不明の現状ではコメントを差し控えたい」とされるのがよろしいのではないかと考える次第です。

東電も国も逃がしてはならん!

2012-02-14 | ニュース雑感
東電問題で、ようやく国が重い腰をあげました。昨日枝野経産相が東電の西沢社長を呼んで、「十分な議決権が確保できない形で資本注入を求める計画が提出されても認定するつもりはない」と、東電の公的資金注入による再建策は国の実質支配が条件となることを突き付けたとのことです。当ブログでもこの問題は何度となく取り上げ、国が3分の2以上の議決権を握り責任をもって東電の組織風土からから変えるべきとの主張をしてきましたが、枝野大臣の発言はまさしくその主張にそった動きをとってくれた訳で、とりあえず一歩前進ではあります。

それにしても東電の西沢社長は相も変わらず、面会後の会見では「民間の活力をきちっと発揮するのは電力事業においても大事だ。民間が望ましいと考える」などと、国民の神経を逆なでするようなことを平気で言い放っています。どこまでツラの皮が厚いのか。「民間の活力を発揮する」って、おいおいおいおい、一方的な法人向け電気料金の値上げを宣言して「民間の活力を削ごうとしている」のはどこの誰ですか?どの口がこんなことを言わせるのでしょう。まずは、こういう自己の置かれた立場さえも踏まえずのモノ言いを封じるためにも国が主導権を握ることは重要なポイントでしょう。

もうひとつの観点として、これまで被災地の賠償問題等で都合が悪くなると東電に責任を押し付け前面に立とうとしなかった政府が、東電の経営権を握ることで過去から将来に至る電力政策を含めた責任ある対応をしっかりとしていただくという意味においても、プラスに働くのではないかと考えます。原発再稼働を前提としているという東電が現在策定中の再建策に関しても、国の方針として今後の我が国のエネルギー政策をどうリードしていくのか、しっかりと道筋を立てて是非を判断しすすめていただく必要があるでしょう。東電に言わせて世論の反発を買ったら方向転換するというような、小手先戦術で国民を欺くようなやり方はもううんざりですから。昨日の枝野大臣の発言が、そこまで責任を持った上でのものであることの確認は国有化前に必要であると思います。

その上で具体的にはまず、東電の資産圧縮、経費削減でどの程度の余力が生まれるのか、見えない部分に徹底的にメスを入れて試算をすることがすべての前提になると思われます。そのために国は東電国有化管理委員会を発足させ、公的資金注入と国の議決権を一日も早く確定させた上で専門チームによる徹底的なデューデリジェンスを実施し、グループ企業も含め東電を丸裸にする必要があります。電気料金の値上げの要否の判断はその後の話でしょう。その上で国の責任において、確固たる我が国のエネルギー政策策定とリンクした東電再建の方針を明確化して、民間の再生専門家チーム指導の下、しっかりと期限を切って組織再生をおこなう。そのような流れが今求められているのではないでしょうか。

東電はもとより、同社の一時国有化によって国もこの問題の当事者の立場から絶対に逃がさない、世論とメディアは今後両者の無責任行動で国民に尻拭いを押し付けるようなことが決してないよう、今こそしっかりと監視の目を光らせなくてはいけません。

「モノづくり日本=滅びゆく“恐竜”」を象徴する日本のテレビ製造業

2012-02-09 | ビジネス
前回のエントリーで書いたソニーの話で、文字数の関係でテレビ製造部門のことに触れられなかったので今回はそのあたりを書いておきます。ただしこの問題は対アップルのケースと違い、ソニーの限った話ではなく同様にテレビ製造で苦しみ今期大きな赤字を計上する見通しとなったパナソニック、シャープを含め、日本の家電業界共通の問題でもありますので、そんな観点から書いたものであるとの理解の下お読みいただければと思います。

日本のテレビ製造はどこで道を誤ってしまったのか、この問題はよく韓国のサムソンとの比較の問題で語られています。サムスンの転機は97年の韓国通貨危機でした。これにより企業の存続すら危ぶまれるほどの危機に直面した同社は、開発および国際化のあり方を根本から見直したと言います。それまでは技術で最先端を行く日本に追随しいかに追いつき追いぬくかに使命感を持って取り組んでいた同社が、最先端技術の開発競争を降り同時に日本とは異なる国際化を進展させました。

日本は、相変わらず最先端技術開発で世界をリードできるという過去の幻想の下に、安価な労働力を求めて製造のみの国際化に軸を据えていきます。片やサムスンは、最先端技術は日本の後追いに甘んじつつも、新興国に製造部門だけではないマーケティング+R&D部門を置くことでそれぞれの地域をマーケットとしてとらえ、日本の後追い技術をそれぞれの地域の嗜好にカスタマイズする「リバース設計」により安価な商品を投入することで新興国でのシェアを伸ばすというやり方に転じた訳です。

さらにこの背景にあった家電デジタル化の進展は、製造原価に占める人件費率をアナログ時代に比べ大きく下げることにつながり、日本の敗北は決定的になります。世界的にみれば必要とはされないかもしれない最先端技術の開発に多くのコストをかけ、製造原価における人件費削減目的でより人件費の安い新興国を求めて製造拠点を増やす。その繰り返しをしている間に、サムスンは世界中の新興国に工場としてではなく企業として進出することでマーケットニーズを把握し、その国仕様の先端技術とは無縁の安価な製品でマーケットシェアを伸ばす…。気がついた時にはすでに勝負はついていました。
(この辺の話は他の家電商品にも相通じるもので、例えば洗濯機は日本では今や一槽ドラム式以外はお目にかかりませんが、新興国では今も二槽式が主流で利用者も高価な日本製の一槽式は求めていないとの話も耳にします)

大幅な赤字を抱えた我が国のテレビ製造業界にとって、今さら一に立ち返ってサムスンのような新興国戦略への転換をはかるような悠長なやり方はあり得ないでしょう。技術という力を誇示し、経済的弱者の新興国を製造工場として自らの“エサ”にしてきた様は、まるで進化の原則である環境への順応をせずに滅びた恐竜のようでもあります。サムスンは、一度ひん死の危機に直面したことによって、環境への順応の大切さを知りました。力を誇示する先端技術競争から一歩引き、日本の先端技術を各新興諸国のニーズにあわせた「リバース設計」に専心することで環境順応を果たし、見事に“進化”をとげ生き延びたわけです。なるほど、もはや日本のテレビ製造は恐竜と同じく滅びる以外に道はないのではないかと思えます。

今朝の日経新聞におもしろい記事が掲載されています。日産自動車が利益で業界首位に立ったと。掲載記事をよく読むと、その理由は「開発の現地化」があると書かれています。「技術者2万人のうち外国人が3割。市場ごとに消費者のニーズをくみ上げ開発にいかす」ことで、中国、ロシア、ブラジルなどでの販売実績が軒並み大幅に増加したと。まさにサムスンと同じ「進化戦略」がそこに見てとれます。

過去に最先端技術を誇り世界に大きく飛び出した日本のモノづくりですが、ここに来て行き過ぎた最先端技術は必ずしも世界的には必要とされないという状況を生み出しています。家電のみならずあらゆる業界で、環境順応という進化の道を歩めるか過去に隆盛を誇っただけの恐竜として滅びてゆくか、日本のモノづくりは今大きな分岐点に差しかかっているように思います。

ソニーの凋落に思う“身の丈経営”の大切さ

2012-02-06 | 経営
平井新社長発表に伴いソニーの立て直し策をテーマにした報道やエントリーが多数出ているので、私も思うところを記しておきます。

ソニーの凋落は、出井時代の事業部門ごとの収益性向上を狙ったプロフィットセンター化の徹底による拡大国際化路線にこそその原因があったと思います。開発型企業がサービス業的部門収益管理を徹底することで、収益競争意識は高まりつつも組織一体での技術、製品開発は疎かになってしまう。まさしく、ハード、ソフト、サービスの一体化は望むべくもなく、アップルに大きく水を開けられた携帯音楽プレーヤーやタブレット端末の分野はその典型例です。ただちょっと待ってください。出井氏が舵を切った拡大路線に従って、そもそもその後ソニーがアップルのような戦略的な頭をもって企業を前に進ませるようなことができたのであろうかという点。それはCEOがストリンガー氏であろうがなかろうが、無理だったのではないかと思えるのです。

ソニーは町工場から生まれた技術開発型の企業であり、言ってみればもっとも日本的な企業でもあったわけです。その日本的な企業が、90年代に出井CEOの下、米国型の国際企業に形を変えるべく組織改革をリードされ、結果として“技術のソニー”はどこかに置き去られる形になってしまった。技術的低迷の責任を取る形で後任にトップの座を譲った出井氏は、それでもなお国際企業化路線を進めるべく、米国人経営者のストリンガー氏を後継に指名します。「マネジメント:ストリンガー」+「技術:中鉢」の二頭体制でのスタートは、恐らく出井氏の自己の“技術オンチ”の反省に立った苦肉の対応策であったのかもしれません。しかしながら米国人と日本人、エンタメ畑と技術畑、あまりに異なるバックボーンの二頭体制は日本的技術系企業内における国民性の違いや育った畑の違いがいかんともしがたく、その成果を見出せずにストリンガー氏は中鉢氏を“勇退”に追い込み“技術オンチ”の自身に実権を集中させるという、端で見る限りは「出井氏と同じ轍を踏んだな」と思わせることになるのです。

アップルの成功はひとえに、スティーブ・ジョブズという稀代の天才経営者がいたという点に尽きるでしょう。彼は技術知識、マーケティングセンスに加えてアーティステックな感性までもを持ちあわせた、驚異的な存在でありました。彼がいたから家電とITの融合は予想をはるかに超える速度で進展した。そのことがまた、不調のエレキ部門を抱えながら同じ路線を目指していたソニーの悲劇でもあったのでしょう。しかしソニーに、いや日本の企業にジョブズ氏のような経営者が輩出されることを望むのは酷すぎるのです。すなわち出井氏が目指したのであろう、「技術+マーケ+αで革新的なものを生み出す国際企業」は、実は日本では輩出せざるジョブズ氏のような天才プロデューサー兼経営者がいてはじめて成り立つものではないのでしょうか。出井氏はアップルの後塵を拝しつつ、米国にそれができる経営者を求めストリンガー氏にそれを託したのかもしれません。しかし結果は散々なものでした。

日本的技術系企業ソニーは病巣を抱えつつ行き過ぎた多角的国際化戦略進行の結果、もはや誰もこの組織を正しい方向へ導くことができないところに来てしまっているように思えます。具体的には、我が国の家電業界が共通に抱える“テレビ問題”と同時に、ソニー独自の組織運営の問題を抱えてしまっているわけで、平井新社長の船出は大変厳しいものであると言わざるを得ないでしょう。そのような中でソニーはいかに復活への道を歩むべきなのか。ソニーに関連する前回のエントリーで、私は「平井氏のコミュニケーション能力に期待する」と申し上げましたが、ソニーを復活の道へ進ませるためには、その前提として「日本的技術系企業ソニーへの回帰」が不可欠であろうと思っています。言いかえればそれは“出井以前”への回帰であり、これはマネジメントのダウンサイジングとも言える、かなり勇気を要する舵とりであろうと思われます。

思いっきり背伸びをしすぎた“出井時代”。その背伸びに無理が生じてアキレスけんを痛めたストリンガー時代。日本の経営者の水準にとっては行き過ぎた領域に向かって走り出し失速をしつつあるソニーをまずは、適正水準に戻すこと。平井氏に期待されるのは、従来の“背伸び経営”路線を見直しし“身の丈経営”へ回帰することではないかと思うのです。ソニーが立ち返るべき「原点」は、出井時代の“多角的国際化路線”の「原点」ではなく、町工場から発展を続けた創業の精神に裏打ちされた「原点」であるはずです。本当のソニーイズムはその場所こそ存在するのではないでしょうか。“身の丈経営”への回帰。今ソニーがおかれた状況は、中小企業経営者にとっても示唆に富んだものであると思えます。

岩波書店の“縁故採用宣言”が、「なるほど納得」な理由

2012-02-03 | 経営
岩波書店が来年度の採用を“縁故採用”に絞るという方針をネット上で公表し話題になっています。一番詳しく分かりやすい記事がスポーツニッポンにありましたので、まずそちらを掲載します。


応募資格は“コネ”のある人―。老舗出版社の岩波書店(東京)が、2013年度定期採用で、応募条件として「岩波書店(から出版した)著者の紹介状あるいは社員の紹介があること」を掲げ、事実上、縁故採用に限る方針を示したことが2日分かった。
同社の就職人気は高く、例年、数人の採用に対し1000人以上が応募。担当者は縁故採用に限った理由を「出版不況もあり、採用にかける時間や費用を削減するため」と説明。入社希望者は「自ら縁故を見つけてほしい」としている。
リベラル系の有名出版社が縁故採用を「宣言」したことに対し、インターネット上の投稿サイトなどでは「どの会社でもやっていること」「機会の平等を無視している」「採用側が条件にするのはおかしい」などとさまざまな意見が飛び交っている。(http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/02/02/kiji/K20120202002556680.htmlより抜粋)


表向きの理由は、この記事にも「出版不況もあり、採用にかける時間や費用を削減するため」とありますが、これを額面通りに受け取るとすれば人材採用の枠を自らより狭めてしまうわけで「優秀な人材を本気で探そう」という意欲に欠けているかのようにも取られかねません。がしかし、普通企業が最も重要な経営資源である「ヒト」に関して、そんなにいい加減なやり方をするとは到底思えないのです。ましてや出版社など、不況業種として苦境にあればあるほど、力強くかつ優秀な人材は喉から手が出るほど欲しいハズです。

ならばこの“縁故採用宣言”、同社の本意は他のところにあると見るべきではないでしょうか。一部の企業関係者の方々はお気づきかもしれませんが、私が思う同社の本当の狙いは「営業力ある人材」の発掘ではないかとみています。要するに、『「縁故採用に限る」と言われて「じゃ俺はダメだ」とあきらめるようなヤワな奴はお断り』ということなんじゃないのかと。「縁故」が超えるべきハードルとして与えられたのなら、それをモノともせずに「越えてやろうじゃないの!」と、戦いを挑んでくるぐらいの闘争心と行動力のある人材が欲しいと、私が採用担当ならそう思いますから(少なくとも「機会の平等を無視している」「採用側が条件にするのはおかしい」とか言っている学生は要りません)。

この手の採用方針を正式ではないものの、陰で言い実行してきた企業は昔からけっこう存在します。その代表格が広告代理店大手のD社。私が就職活動をしてた30年ほど前には、「朝のD社のトイレは臭い」と言われるほど営業がバリバリの連日の接待営業をしていたと聞きます。私がその数年後取材でお目にかかった同社の人事担当は、私の「御社はコネ採用が多いですよね」という質問に、胸を張って「コネも実力のうち、正確にいえばコネを作る力こそ実力!」と言って憚らなかった。要するに“広告取り”が屋台骨を支えている大手代理店において、「営業力のない奴はいらん!」ということなのです。

出版業界は活字離れがその経営を根幹から揺るがしかねない状況におかれており、黙って本が売れる時代でないからこそ、求められるものは代理店並みの「営業力」なわけです。岩波が“縁故採用宣言”したからと言って、「親戚が岩波の社員なので応募しました」なんて言うだけの文学青年系学生を採って採用を簡素化しようなどとは、これっぽっちも思っていないでしょう。リベラル系エリート出版社の岩波に不足している「雑草のような強い営業力」こそが欲しいのではないかなと。ならば、むしろ応募者が減ることで、単なる“縁故”と努力して勝ちとった“縁故”の差が明確に出ることにより、より理想に近い人材が採用できるのではないかとさえ思えます。

今ネットのニュースページを見たところ、小宮山洋子厚生労働相が今朝の会見でこの問題に触れ、「公正な採用・選考に弊害があるという指摘かと思うので、早急に事実関係を把握したい」と述べたとか。必要ないでしょう、そんなこと。上記のように理解すれば、至って正当な採用方針であると思います。岩波がハッキリ本意を表明すればいいだけのことでしょう。最後に一言、「世の中、コネより営業力」です。

※ちなみに私、岩波の支持者でもなんでもありません。あくまで企業の「人材採用」という観点からの一考察ですので、誤解なきよう。

ソニー取締役会の英断に拍手

2012-02-02 | 経営
ソニー次期社長に平井一夫副社長の就任が正式に発表されました。驚きだったのは、当初伝えられていた、ストリンガー現CEOが会長兼CEOで残る案ではなく、取締役会議長に退き平井氏を社長兼CEOとして全権を集中させるという人事に中身が変更されていた点です。そのあたりの経緯は本日の日経新聞にも詳しく掲載されていますが、委員会設置会社のトップ人事を巡る取締役会、特に指名委員会のガバナンス機能を考える際の企業のあるべき形のひとつとして称賛に値するものではないか感じています。

当初、ストリンガー氏は引き続きCEOを兼務することで自身の責任において平井氏との二頭体制を組み、経営の立て直しに当たる考えを示していたと聞きます。しかし委員会設置会社において役員人事を司る取締役会指名委員会は、4期連続赤字が確実視される同CEOの業績責任を重く見て、ストリンガー続投に疑問符を投げかけたようです(非技術系の二人がトップに立つリスクも懸念されたのではないかと思われます)。委員会設置会社はそのガバナンス機能をより確かなものにするために、各員会を構成する取締役の過半を社外取締役にすることを義務付けています。ソニーは15人の取締役のうち社内はストリンガー氏と前社長の中鉢氏の2名のみ。大半が社外取締役であり、トップ交代に関する彼らの判断が注目されると前回のソニー関連エントリー(http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/bb743d6fcffda762d54ccc128aca10d1)でも述べさせていただいたところでありますが、十分にガバナンス機能を発揮した結果となりました。

本来、会社法上で代表取締役は取締役会の下に位置するのですが、日本的組織管理ではたいていそれが逆になり、代表取締役の意向を取締役会が追認する形をとることで、ガバナンスを危うくし誤った方向に企業を導く原因になってもいます。トップがらみの企業不祥事は、たいていこの点がネックになって起きてもいます。ソニーのような大企業ではたくさんの情報がメディアを通じて流されますし、株主の人たちにも「ストリンガー氏続投でいいのか」という目で事態の展開を見守っていた人が多くいたのではないかと思っています。その意味では、現段階での取締役会の判断として、大変思慮深い決断がなされたと言っていいのではないでしょうか。昨日のエントリーにからめて言えば、東電も相撲協会もぜひ見習うべきガバナンスのあり様であるといったところでしょうか。

ここからは至って個人的な感想を。思えば、ストリンガー氏は前CEOの出井伸之氏の推薦により後任を任された人物です。出井氏は、技術畑出身でないがためにイメージ戦略先行路線の経営である意味、技術のソニーの“失われた10年”を作ってきた経営者であります(もちろん、ブランド価値の向上等においては成果を上げており、経営者として無能であったと断じるつもりはありません)。ストリンガー氏はそんな出井時代最後のソニー・イメージ戦略仕上げ策として投じられた、国際企業イメージ醸成狙いの外国人経営者起用ではなかったかとも思わされました。確かにストリンガー時代は、リーマンショック等不幸な時期ではあったものの、やはり生え抜きでないハリウッド映画ビジネス出身の米国人という部分がソニーのトップとしては荷が重かったのではないかと思わされもします。生え抜き平井氏へのバトンタッチで、“出井黒魔術”はようやく終焉を迎えるのかなと期待されることろです。

平井氏について、前回エントリー以降いろいろ人物像が明らかになってきました。今回のトップ交代で何といっても一番のソニーらしさを感じさせるのは、年功制を全く無視した思い切った若返りです。前回も申し上げましたが、この若返りパワーによるソニーの再生は大いに期待されるところです。さらに本日の日経新聞の人物評で、もっとも目を引いたのは「事業アイデアをグループ内から広く吸い上げる対話型に経営スタイル」という人物評。これは私が常々申し上げている「経営者の開物力」そのものであり、技術者でない弱みを包み隠すことなく、コミュニケーション能力でカバーするということができうる人物であると受け取りました(出井氏も同じコミュニケーション能力に長けた経営者でしたが、主に外へのコミュニケーションにパワーが割かれた点が組織にとって不幸であったとも言えると思います)。

一点だけ心配な点。平井氏を推薦したのは当然ストリンガー氏であり、もちろんゲーム事業を立て直した手腕を買っての抜擢ではありますが、ネイティブレベルの英語能力がありコミュニケーションが他の役員に比べて取りやすかったという点が多少なりともありはしなかったか、という懸念。要するにマネジメント能力評価が語学力に上塗りされて実力以上のものになってはいなかったかということです。ただ、これは今言っても仕方ない。まずは、平井新社長のコミュニケーション力を背景にしたフレッシュさあふれるマネジメントに期待したいところです。前回エントリー記載時は、期待と不安が「5:5」といった感じでしたが、ストリンガー氏勇退と平井氏の手腕の背景となりうるコミュニケーション力に期待して、現時点では「8:2」に修正させていただきます。同世代の音源業界出身のやわらか頭に期待です。

東電VS相撲協会、“おバカ競争”の行方

2012-02-01 | ニュース雑感
東電と日本相撲協会は、つくづく日本を代表する“おバカ組織”であると思わされます。

まず東電、西沢社長がまた昨日の会見でやってくれています。大株主東京都の猪瀬副知事が噛みついた企業向け電気料金の値上げに、経産省の「電気料金制度・運用の見直しに係る有識者会議」から提言される内容を受けて「原価」の見直しをし、家庭向けと併せて法人向け料金にも反映させると。全然ピンボケじゃないですか。同会議のやっていることは、積み上げ方式「原価」の中身に入れるもの入れないものの適否判定の問題が重点であり、猪瀬氏が言っていることは前回当ブログでも申し上げた、中身一つひとつに関する削減目標とそれを実現する具体的な削減策の提示とセットで削減努力を値上げよりも優先せよと求めていることです。

明らかな目くらましでしょう。会議のミッションを故意に拡大解釈し、「政府の会議が提言したことに従った対応策をしたのだから、それに従って経費増が提示できれば料金をあげても文句あるまい」という、あまりに図々しい姿勢がまたぞろ出てきたという感じであります。それをもって「議論の結果をきちんと料金に反映させていく」と言い放っているわけで、被災者ではない私が聞いていても頭にくるような物言いの連続であり、被災地の人たちの怒りやいかばかりであろうかと思います。

前回西沢社長が言った「料金値上げは権利」という考え方に対して、これだけ世間の批判を浴びているのにもかかわらず全く考えを改める気がないということなのでしょう。ならば「権利」の前に果たすべきは「義務」であるということを、国はもっと明確な形で示す、すなわち「国有化」という態度で示す以外にないということがハッキリしました。昨日、古川経財相が西沢社長と面会し「値上げの経済への影響をどう考えるのか」とただしたと言いますが、西沢氏はあくまで組織防衛の一心から「値上げ=権利」をふりかざしたのみだったとか。ここまで来るともうお話になりません。問題が長引いていい結果などひとつもないでしょう。この腐りきった組織風土を見るに、早急に国が3分の2以上の議決権を握る「国有化」を発動することは、国民経済を守る上での「義務」であると思います。

一方の日本相撲協会。30日の理事長選で、たび重なる不祥事で引責辞任した北の湖、九重親方らが何事もなかったように復帰して、しかも組織トップの理事長に北の湖、№2の事業部長に九重という布陣で“新たな船出”というのですから、「バカかお前らは!」と常識的な一般人は思うところです。しかも、外部有識者でつくるガバナンス委員会が昨年2月に求めた改革案として「理事の約半数は外部から起用すべき(現在は12名中2名のみ)」というものがありましたが、引き続き10名は親方からの選出という全く無視の姿勢。それに関するコメントもなし。

人間太ると神経も図太くなるのでしょうか。全く我関せずのようです。これでは、ガバナンスではなくて「バカナンス」です。もしかして相撲協会の理事の皆さん、ガバナンスの意味を御存じないとか?あり得そうで怖い。こちらは東電とは違い国民経済への影響はないのでどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、一応「国技」としての自負をもって公益財団法人への移行を目論んでいる立場なわけですから、「国技」を名乗る競技団体の在り様として一国民として恥ずかしい限りではあります。

おかれた立場に関する現状認識の甘さと言ったら、東電も相撲協会もいい勝負です。共に組織運営の主導権を守りたいがための、誤った選択を恥ずかしげもなく堂々と世間に晒してしまっている“おバカ組織”なわけです。この“おバカ競争”、見ているだけで腹立たしい。国民生活に不可欠なエネルギーインフラ企業と「国技」団体がこれ以上日本の恥を世界に晒すようなマネをする前に、国の責任において一刻も早くストップをかけるべきではないでしょうか。