日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「70年代洋楽ロードの歩き方23」~ローリング・ストーンズ1

2010-10-10 | 洋楽
いよいよ70年代のポピュラー音楽界を語る上で欠かせない存在、ローリング・ストーンズを取り上げます。

70年代のストーンズを語る上ではまず60年代後半のポピュラー音楽界の動きを抑えておく必要があります。60年代前半にはまだまだ明確なジャンル分けもなくひとかたまりだったポピュラー音楽は、60年代後半に入って“業界リーダー”たちの革新的な動きを契機として確実に分科をはじめ、70年代に入ってそれは確かな形となってあらわれるのです。そんな60年代後半のポピュラー音楽における大きな革新的な動きのひとつは、最大の“業界リーダー”ビートルズによってもたらされました。67年、前年にライブ活動を休止したビートルズはスタジオでの制作活動に没頭するようになり、それまでの常識を覆す革命的な作品を世に問いました。ポピュラー音楽における初のコンセプトアルバム「サージェント・ぺパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」がそれです。

このアルバムが世間に与えたインパクトは大きく、以降シングル作品中心であったアーティストたちの創作活動はトータル作品としてのアルバム指向へと移っていくのです。年代末期から続々登場するロックオペラ的作品や、クラシック音楽的要素も加えながら発展しその後プログレッシブロックと分類されるようになる類の音楽が誕生した背景には確実に、「サージェント・ぺパーズ…」によって披露されたコンセプトアルバムの考え方が存在するのです。

さてビートルズのこのような動きに対して遅れをとり、コンプレックス丸出しのアルバム「サタニスティック・マジェスティーズ」をリリースするなど迷走していたローリング・ストーンズは68年に、遅ればせながらビートルズとは対局的なしかしながら来るべき70年代に確実にその影響を引き継ぐような新たな動きを見せました。それは自分たちのルーツとは全く異なったものへの接近により新しいスタイルを作り出すという、コンセプト作品の制作とは違った意味でとても画期的な試みでありました。そして彼等が接近した音楽は自分たちの故郷英国産のそれではなく、海の向こうアメリカ産の原住民や黒人たちがつくりあげたルーツ音楽と言われるものでした。

実は彼等がこのルーツ音楽に接近したのにはキッカケがありました。そのキッカケを提供したのは、当時すでにミュージシャンの間で伝説化していたアメリカのシンガー、ボブ・ディランだったのです。彼はフォークシンガーから政治的メッセージをギターで歌うプロテストソング・シンガーへ転身、さらにはギターをエレキに持ち替え主義主張を歌う初のロックミュージックを世に送り出し、その存在は音楽界でも特別なものになっていました。その彼が67年のバイク事故以来隠遁生活に入り半ば神格化されつつあった時期に、ザ・バンドを従えて密かに制作された作品が音楽界に出回ります。これはアメリカの音楽史とロックを結びつけた画期的試みであるルーツロックの原点であり、世界初のブートレグ盤「グレートホワイトワンダー」としても有名なこの音源に衝撃を受けたアーティストは多かったのです。

ストーンズのメンバーたちもこの音源に魅せられ、自分たちの音楽制作のあり方を根底からつくがえさせられたのでした。そして彼らがカントリー、南部音楽、ゴスペル等の要素を取り入れ全く新しいローリング・ストーンズとして68年にリリースしたアルバムが「ベガーズ・バンケット」でした(「ベガーズ・バンケット」のジャケット写真の壁には“DYLAN'S DREAM”の落書きがあり、明確なディランからの影響をうかがわせます)。このアルバムで当時ある意味音楽的に煮詰まっていた彼らは一気に新たな局面に入り、彼らの新たな取り組みは周囲にも大きな影響を及ぼしたのです。ルーツ音楽を取り入れた流れは69年の次作「レット・イット・ブリード」では一層すすみ、ライ・クーダーやレオン・ラッセルを迎えてストーンズ・スワンプの流れを確立するに至ってここに“70代年型ストーンズ”の準備は完全にできあがるのです。
(この項続く)

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