日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№91~コンセプチュアルなライブ・アルバム

2009-11-08 | 洋楽
いよいよこの企画も残すところあと10枚。カウント・ダウン状態に入りました。終了までの間に、見直しをしたい部分も一部あるのですが、今日のところそれはさておき91枚目です。

№91     「孤独のランナー/ジャクソン・ブラウン」

確か77年だったでしょうか。ジャクソン・ブラウンの初来日公演。その2~3カ月前、誰かのコンサートの際に配られたフライヤーにあった「イーグルス・ファン必見!『テイク・イット・イージー』の作者が初来日!」という一言に、当時イーグルス大好きだった高校生の私は「これは二度と見れんかも。行かなくちゃいかん!」とばかりに、チケットを買って行った中野サンプラザ。当時の日本での無名ぶりから(と言うか私にとってはほとんど無名状態でした)、閑古鳥を予想した私の期待を大きく裏切る超満員(同じような体験がもう一度ありました。喜納昌吉&チャンプルーズ本土初ライブでした)と、その素晴らしいライブにビックリ仰天!すっかり魅せられてしまったと記憶しています。

そして、素晴らしい来日の余韻も冷めやらぬ翌78年、本アルバムがリリースされました。このアルバム彼にとって初のライブアルバムでありながら、全曲新曲という思い切ったつくりでした。しかも全10曲はどれも、ツアーやロードといったコンセプトでくくられるものばかり。いわばライブと言う収録方法も含めた完璧主義の彼らしいコンセプト・アルバムだったのです。録音場所も、ステージばかりでなくリハーサルやホテルの部屋、あるいはツアー・バスの中などで収録されたものも含むという念の入れようです。なるほど、こだわりの人らしい、実によくできたアルバムでありました。そして本作は本国アメリカで大ヒットします。シングルA1「孤独のランナー」B5「スティ」の2曲のヒットにも後押しされ、彼のアルバムではそれまでの最高位となる全米3位を記録したのでした。

しかしこのアルバムはその大ヒットとは裏腹に、「これをジャクソン・ブラウンの本来の姿と思って欲しくない」みたいな…、ファンにとっては微妙な感触があったのも事実でした。簡単に言ってしまえば、「それまでで最も彼らしくないアルバム」だったのです。その理由の第一は、収録曲が2曲を除いて他人の曲あるいは共作で占められていたことです。この点は、以前からのファンにとっては大きな違和感だったのです。さらに人気に火をつけたヒット・シングルのタイトル・トラック「孤独のランナー」。この曲は、どこかブルース・スプリングステーンの匂いがする、ロックナンバーでした。前作「プリテンダー」のプロデュースをして彼の作風に少し変化を持たせたのが、スプリングスティーンを世に出したジョン・ランドゥですから、その影響は確実にあったと思います。ただファンにとって彼が売れることはうれしくあっても、「この手のやり方は感心しない」といった感じが少なからずあったのでした。

「孤独なランナー」は、日本でも信じられないほどのヒット曲になったのですが、当時日本では本国以上に彼の本当の姿は正確に理解されずに、スプリングスティーンと同じノリで売られブレイクしたように思えます。実はこの「孤独なランナー」、スプリングスティーンの「明日なき暴走」的なイケイケ・ソングかと思いきや、ジャケットの暗さが物語るように“空虚な走り”というけっこう悲痛な叫びがテーマだったりするのです。そう考えるとスプリングスティーン的な売られ方は、彼にとってはちょっと悲しいやり方だったようにも思えてくる訳です。その後日本の音楽ファンたちが彼の本質を知るにつれ、スプリングスティーンの人気上昇と反比例するように日本での人気が下降の一途をたどった事を見れば、この当時のレコード会社の売り方の誤りがよく分かると思います(結果本当のファンだけが残った現状は、決して悪くないとは思いますが…)。

そうは言っても、その後現在に至るまで彼の全作品中最も売れたアルバムであることは厳然たる事実であり、TOP20に入るシングル・ヒットが2曲も出たのも後にも先にもこのアルバムだけなのですから、やはり彼の代表作には違いありません。本企画のアルバム選出基準“全米TOP40的”からすれば、彼の作品中本作が一番選出にふさわしい訳です。ただ個人的には、他のジャクソン・ブラウン・ファンと同様、本作よりも初めて買った彼のアルバム2作目「フォー・エブリマン」や名作の誉れ高い3作目「レイト・フォー・ザ・スカイ」の方が、彼らしくあり断然フェバリットではあります。

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