日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

清志郎とザ・フー、ロック世代のスピリット

2009-05-21 | その他あれこれ
5月9日土曜日、青山ロックンロール・ショーと銘打たれた故忌野清志郎告別式に、大ファンでもない私がなぜ駆り立てられたのか分かってきました。

本日発売の雑誌「ミュージック・マガジン」に今井智子さんの追悼文が掲載されていました。この雑誌を買ったのは創刊40周年記念で、また性懲りもなくやっている「1969~1979アルバム・ランキング・ベスト100」という企画を一応見ておこうかという目的でした。地下鉄の中でパラパラとめくりながら、思わず目に止まったのが先の追悼文。引き込まれるように読みながら、これまでおぼろげに感じていた、あの日私を駆り立て不思議な半日を過ごさせたものが何であったのか、ハッキリ分かった気がしました。

ヒントは告別式で弔辞を述べた甲本ヒロトのエピソードにありました。甲本は昨年11月、清志郎にザ・フーの来日公演会場の武道館で会っていたというのです。「やっぱり…」。彼は病魔に侵され余命幾許もない身でありながら、あのザ・フーを体感しに来ていたのです。彼はロッカーとして、ザ・フーを最高に敬愛していたのです。

彼が80年代に発売中止騒動を巻き起こした反原発メッセージの歌詞を乗せて歌った歌は、まさに彼らザ・フーの「サマー・タイム・ブルース」でした。反原発メッセージを伝えるに際して、あえて原発とは何の縁もないこの曲を清志郎が選んだのは、おそらく「老いぼれる前に死にたいぜ!」と歌い続ける彼らのロック・スピリットこそが、清志郎のロッカーとしての強烈なメッセージを発するのに最もマッチすると考えたからでしょう。私にとってもザ・フーはNo.1ロック・バンドであり、その理由もまたそのロック・スピリットにこそあるのです。

社会人駆け出しの頃、清志郎が反原発問題で自己の感性を突き通している姿を見たとき、正しいと思うことをやり抜くというあるべき「大人の反骨」のあり様を見せられたようで、とても共感を覚えたものです。その理由のひとつには、このヤリ玉に挙げられた作品の原曲奏者、ザ・フーのイメージとリンクしたことも少なからずあったのだとも思います。清志郎とザ・フーに共通するロック・スピリット、それは私が佐野元春の歌詞を借りて学生時代からずーっと守り続けてきた「つまらない大人にはなりたくない」という信条(それで銀行も辞めたのですがね)にストレートに訴えかけるものであったのです。

このあたりの世代感覚を、今井智子さんは先の追悼文中で次のように書いています。
『反核ソングなどで物議をかもした時、「ロックってそういうものだろう?」と(清志郎は)言っていた。主義主張を押し通すというより、自分の思うところを素直に歌にしたに過ぎないのだが、そうするのがロックということだ。そして自分の言っていることが間違っていないのだから曲げることはない。そうしたアティチュードも含め、(我々は)ロックを学んできた世代なのだ』
同世代として全く同感できるところです。

昨年11月、私は武道館でザ・フーを見て、60代半ばになりながら昔と変わらず「つまらない大人」には決してなっていない、ピート・タウンゼントとロジャー・ダルトリーに感動しました。同じ武道館であの時のザ・フーを見て、清志郎は一体何を思ったでしょう。甲本ヒロトは弔辞の中で、「多くの人があなたに憧れていたように、あなたはロックンロールに憧れていた」と話しました。きっと清志郎は、その日60年代から一貫して変わらぬザ・フーのロック・スピリットに歓喜したに違いないと思います。それは、生涯最後の彼のロック・スピリットを揺さぶる歓喜だったのかもしれません。

甲本ヒロトは、武道館でなぜか清志郎からザ・フーのピート・タウンゼントのピックをもらったのだそうです。ピートのピックはロック・スピリットの象徴でしょう。清志郎は明らかに意図をもって、ロック・スピリットを彼に引き継いだのではないでしょうか。私を青山ロックンロール・ショーに駆り立てたものは、私の人生を支えてくれている私自身のジェネレーション・ロック・スピリットが無性に清志郎に会いたがった結果であったと思います。そして清志郎は、あの日私たち青山ロックンロール・ショーに来場したすべての“ロッカー”一人ひとりに、確実に彼のロック・スピリット授けてくれたのです。

「返さなくていいよね?このピック」、甲本ヒロトは弔辞の中で涙声で言いました。
私も言わせてもらいます、「返さなくていいよね?このロック・スピリット」。
清志郎やザ・フーに鍛えられた世代のロック・スピリットは、このブログにも生き続けていくでしょう。

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