goo blog サービス終了のお知らせ 

日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「増税の枠組み」よりも「復興債の考え方」の議論を!

2011-09-25 | その他あれこれ
24日の日経新聞にも取り上げられていたので、復興債について思うことろを少し書いておきたいと思います。

首相の交代を機に、いよいよ復興財源の話が具体的に動き出した訳ですが、どうも首相の話のリードが悪いのか「復興財源=増税議論」オンリーの話に終始している嫌いがあるように思います。ここで確認しておきます。今分かっている民主党政権の復興財源に関する考え方は、
①復興債を発行する
②集めた資金で復興に着手する
③復興債償還原資づくりとして臨時増税をする
④増税により税収で復興債の償還をおこなう
という流れであると認識しています。

このような流れにありながら、なぜはじめに出口に近い「増税」の話ばかりが問題になっているのか。どうも私にはその点がしっくりこないのですが、皆さんはいかがでしょうか。上記の流れに沿って考えるなら、常識的にまず真っ先に十分な議論をしておくべき問題は入口に位置する「復興債の考え方」ではないでしょうか。なぜなら「復興債の考え方」次第で、増税の総額や臨時増税期間に関することも大きく異なって来ると思えるからです。そこで以下に、復興債に関する私見を少々述べさせてもらいます。

まず復興債の償還期間ですが、政府は原則2022年までに償還を終える実質11年でことを完結させる枠組みを検討しています。これは野田総理の「次世代に負の遺産を引き継がない」という強い要望に沿ってのことと理解していますが、この考え方は本当に正しいのでしょうか。私はかなり違和感を感じています。投資に対する負担の考え方は、世代別「受益者負担の原則」を基本に据えるべきであり(被災地にのみ負担を負わせると言う意味はありません)、被災によって失われたものの復元や救済投資に関しては現世代負担とすることでよろしいでしょうが、新たな未来を築くための基礎部分への投資については現世代だけでなく次世代にも負担をお願いしても理解は得られるのではないかと考えます。

となれば、債券は「現状に資する部分」と「未来を築く基礎づくり部分」との二種類に分け、前者は先の最大11年償還の復興債として調達し、後者は通常の建設国債と同じ60年償還の債券で調達するという考え方がふさわしいのではないかと思うのです。これだけでも臨時増税の負担はかなり軽くなると思われます。さらに前者の11年償還復興債については一部を個人国債として、これまでも何度か当ブログで提言してきた、具体的資金使途別の債券発行による無利子の“ボランティア国債”として資金を集めることはできないかと思っています。我が国の豊富な個人貯蓄をこういった時に活用しない手はないのです。

必要資金が集まらなければ、不足分を改めて有利子の復興債として発行する形になりますが、今回の震災後に見せた日本人のボランティア精神の強さを鑑みれば、かなりの金額が無利子調達できるのではないかと思います。もし「現状に資する部分」全額が無利子発行で賄えるなら、当面は「未来を築く基礎づくり部分」を除いた債券の元本償還資金をどうねん出するかに的は絞られ、政府保有資産の売却等を優先的に検討することで増税は最小限に抑えられもするのです。もちろん、最長60年償還の建設国債の償還スケジュールも場当たり主義的対応ではなく、しっかりとした国家ビジョンの下策定される財政再建策の中でしっかりと計画的償還をしていくということになるのは前提条件かと思います。

出口の見えない世界的不況と円高のダブルパンチにあえぐ現況下で、「増税ありき」の復興策として所得税、法人税の大幅な増税を決定することは、さらに景気マインドを冷え込ませ確実に日本経済をより一層暗い影を落とすことになる訳です。上記案がそのまま現実的に機能するという意味ではありません。ただ今日本のリーダーがすべきことは出口近くの「増税」の枠組みを真っ先に決めることではなく、まずどうしたら「増税」を最小限に抑えられるのか、もっと入口の「復興債の考え方」すなわち未来の日本づくりを前提とした「我が国の復興のあり方」から十分な議論をリードすべきではないかと思い、あえて稚拙な私案を申し上げたまでです。根本の議論を御留守にして、国民への早目の根回しとばかりに安易に「増税」「増税」と叫ぶのは、結局前首相同様のリーダーとしての無能ぶりを明らかにするようなものではないかと思えてなりません。

公務員住宅は本当に必要か?

2011-09-20 | その他あれこれ
以前拙ブログでも取り上げた「朝霞米軍基地跡公務員住宅建設」の件(「増税の前にすべきこと」http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/f4578a560445f1a1269f75b5ae468c4a)が、国会の代表質問でみんなの党渡辺代表に取り上げられ、その際の野田首相とのやりとりが週末のメディアでも紹介されていました。「一度事業仕分けで“事業凍結”とされたものが、なぜ復活したのか」との質問に、「真に必要なものであると判断した」との回答をされたようです。何を基準にそう言っているのでしょうか。私には分かりません。

前回のブログでも書きましたが、支出削減に向けては個別論で話をしても何の解決にもならないと思います。事業仕分けチームは個別論でパフォーマンスを止めて、各問題分野ごとの基本方針を議論し政府として閣議決定すべきです。例えばこの「公務員住宅の必要性」についてなら、「真に必要なケース」とはどのようなものなのかという政府としての「基準」決めをおこない、併せて仕様や賃料の「基準」をも定める必要があると思います。こういった「基準」が決まるなら、それに従って既存の公務員住宅の存廃および売却、賃料見直しを決めればいいですし、建設計画についてもこの「基準」に従ってやるかやらないかを決めればいいのです。

そもそも公務員住宅って必要なのでしょうか。有無を言わさぬ全廃が正しいとは言いません。周囲に適当な民間住宅がない施設に通勤する公務員向けの住宅等は、確かにその必要はあるでしょう。しかしながら、今回の朝霞をはじめとして民間住宅がいくらでもあるような地域に、多額の国家予算を投じた公務員住宅が本当に必要なのでしょうか。この点を国家公務員に尋ねると「我々は民間よりも給与が安い。福利厚生としてそのぐらいの手当があってもいい」という話が、判を押したように聞こえてくるのですが、本当にそうなんでしょうか。彼らが比較をしている「民間」とは、大抵の場合大手企業でありますが、日本の就業人口のほとんどを占めているのは中小企業です。中小企業を基準に考えるなら、公務員給与は決して低くありません。しかも以前ならともかく、現在大半の中小企業に社宅など存在せず、長期景気低迷と終身雇用が常識の時代が終わった今では借り上げ方式を含めた社宅制度廃止は世間一般大きな流れでもあるのです。

何より国家公務員の皆さんが、大企業を比較基準としてご自身の処遇を考える事自体が間違っています。これはおそらく「国家公務員になっていなかったら、私は確実に大企業に入っていた」という偏差値教育の弊害ではないかと私は思います。国家公務員と言う職業を選んだ段階で、その職業選択は国民の生活を守りその水準を高めることを志したものであるはずです。すなわち、国民の平均的な生活環境を実感しつついかにそれをいいものに高めていくのか、それこそが彼ら国家公務員の使命であるはずなのです。彼らが一部の大企業と同様の処遇の下(あるいは今の公務員住宅は、立地・家賃から考えれば大企業以上?)に国民生活を見渡したところで、本当に平均的な国民生活の実感した上での使命遂行などできないのではないでしょうか。この点が理解できないのなら、初めから国家公務員など志すべきではないのです。

公務員住宅の問題ひとつを取り上げても、このように問題は意識改革をも含めた日本の国家公務員制度の根深い部分に入っていかざるを得ないのです。これを各論レベルの議論で済ませていたのでは、本当の公務員改革も復興に向けた財政問題の議論も正しい結論を導くことは到底できないのでないかと思います。「公務員住宅問題」は、誰にでも分かりやすく公務員改革や財政問題への理解や関心をもってもらえる格好の題材であります。「朝霞」の一件を機として、個別議論に終始しない根本的な問題を議論する風潮づくりにメディアも動いて欲しいと思います。根本議論のない増税と言う“モグラ叩き”では、真の復興に基づく明日の日本は見えてこないのです。

★J-CAST~大関暁夫連載「営業は難しい~ココを直せばうまくいく!」またまた更新しました。
◆転職した営業マンが成功する「レバレッジ営業術」◆
http://www.j-cast.com/kaisha/2011/09/19107619.html
インデックス
http://www.j-cast.com/kaisha/column/kokonao/index.php

国会の「ヤジ」、会見の「罵声」は“恥”を知れ!

2011-09-15 | その他あれこれ
会期4日の国会は昨日衆院の代表質問に移りました。毎度のことではあるものの、気になったのは汚い「ヤジ」の多さ。いつもこととは言いながら、「国を運営する選ばし者」のするべき行為であるのかいささか違和感を覚えるシーンである訳です。

似たような類の“事件が”、鉢呂前経済産業大臣の辞任会見でありました。辞任を表明する大臣に、「何が原因で不信の念を抱かせたのか、言ってみって言ってんだよ!」という罵声が浴びせられたという件。もちろん声の主は新聞記者です。社名、名前も名乗らず、とのことでですから、これも「ヤジ」の部類です。挙句には首からかけた身分証まで隠したと。社会正義の追及を旨とする報道の人間としてあるまじき行為であります。一体この国の報道モラルってものはどうなってしまっているのでしょう。驚きを通り越して呆れるしかない状況であるとしか言いようがありません。

場面とその声の主によっては「ヤジ」という行為そのものを否定するつもりはありませんが、国会の代表質問における議員、記者会見における記者の立場として「ヤジ」はいかがなものなのでしょう。「ヤジ」は匿名の無責任発言であり、個々には力を持たない小市民が口々に「ヤジ」を飛ばすとこで権力に対して世論を知らしめる手段などとしては有効かつ正当な「ヤジ」であろうとは思いますが、立場あるモノが公式の場で自ら行うのはある種の「コミュニケーション放棄」であり、私は恥ずべき行為であると考えます。

形を変えた「ヤジ」としては、ネット上の2ちゃんねるやツイッターなどでの匿名発言もその類であり、先の「世論を知らしめるケース」ではありませんが、いい方向に作用することもあるものの、匿名故の無責任発言があらぬ“炎上”を生みだしたり、いろいろな問題を引き起こしてもいます。ネット・コミュニケーションの広がりによって、「ヤジ」の功罪はこれまで以上に明確になった感があるようにも思えます。

私が先の国会における「ヤジ」や記者会見における「罵声」を不快に感じるのは、ネット上の暴力的匿名無責任発言と同じ“卑怯な弱虫”の匂いを感じるからに他なりません。「どうせ面と向かっては言えないんだろ」「相手が強面なら言わないんだろ」と思える点も、「どうせネット上の匿名でなければ言えないくせに」と思わされる行為と全く同様です。このような観点で考えれば、賢い政治家や記者なら自分がしている「ヤジ」行為がネット上の暴力的匿名無責任発言と同じであるという愚かさに気がつくはずではないのでしょうか。日本の政治家やメディアの質の低下には目を覆いたくなるばかりです。

国会議員や新聞記者というとるべき行為のある立場の人間のあるまじき行動を監視できるのは、唯一メディアでしかないと思います。国会中継やそれを報じるテレビ・ニュースでも、「ヤジ」をテロップで流すなどというくだらないことをするのではなく、誰の発した「ヤジ」なのか明確に報道しあるいは発した者の顔を大写しにするなどして選んだ国民の前に晒し、「恥」を「恥」としてしっかり自覚させる必要があるのです。新聞記者も同様です。不要な「罵声」を浴びせた記者に対しては、幹事社の責任において「社名、氏名」を正し悪質なモノは退場を命じる等の対応も必要でしょう。記者クラブが“情報談合団体”で終わらないためにも必要な行為であると思います。

立場ある人間の「ヤジ」や「罵声」は、コミュニケーションの破壊行為に他なりません。コミュニケーションの悪さがあらゆる物事を停滞させ、また誤った方向にすすませることにもなるのです。メディアはそのような観点からも立場ある人間の無責任発言を監視し、自覚を促して欲しいと思います。

判然としない、大臣を辞任に追い込んだ報道の是非

2011-09-13 | その他あれこれ
鉢呂経済産業大臣が、「死の街」発言で引責辞任した件ではどうもスッキリない部分が沢山あります。

その1
そもそもは大臣が福島県を視察して強制退去地域を訪問し、人っ子一人いない状況を指して「まさしく死の街でした」と言ったことが問題視され報道されます。それを受けて、前日の記者との“囲み”で「放射能がつくぞ」と自身の服を記者にこすりつけたことが後追いで報じられ辞任に追い込まれました。分からないのは後者の“囲み”取材の一件。もちろん大臣の言動としていかがなものかという内容ではありますが、なぜこの報道が後追いでほじくり返されたのか。“囲み”の懇親コミュニケーションのひとつとして、その場はやり過ごされたハズのモノがです。スッキリしません。“死の街発言”批判を正当化するためのメディアの恣意的誘導?ある意味ネット上で炎上騒ぎを起こす輩となんら変わらない体質を感じたりもして、大臣発言の善し悪しとは別にメディアの報道の在り方としてどうなのか疑問です。

その2
そもそものきっかけ発言である「死の街」ですが、大臣の肩を持つもりはありませんが、いわゆる英語で言うところの「ゴースト・タウン」を日本語的に言おうと思って誤訳したのではないかとも思えています。もちろん、被災者の皆さんの立場を考えれば例え英語の訳一つにおいても細やかな神経を使わなくてはいけないのが当然ではありますし、大臣と言う立場であるならなおさらのことです。ただ「ゴースト・タウン」と言われ「“幽霊の街”?けしからん!」と思う人はいないでしょうし、大臣発言の「死の街」にしても文脈から考えれば「街としての機能が停止した街」という意味に十分受け取れるのではないかと、個人的には思えます。報道の怖さというのは「単語」のみを取り出された時、発言意図とは全く違う意味合いに受け取られかねないという点にあります。その「単語」を耳にした人たちの拒絶反応が大きく取り上げられれば、世論をも動かしうると言う恣意的な誘導リスクも感じさせられ、なんともスッキリしないのです。

その3
さらにもう1点。メディアが今の情勢の中で、あえてこのようなある意味恣意的とも受け取られかねない報道をおこなうことが、結果「政局」をつくるようなことになるという流れをメディア自身分かった上での行動であったのか、という部分です。前政権のリーダーシップ欠如による復興策の遅れは国民的損失を招いているわけであり、その点を社会の公器たるメディアの立場で考えれば、誰が見ても今の時点ではできれば「政局」は避けるべきです。従い、上記のような受け取り方ひとつで評価が変わるようなあいまいな状況を敢えて率先して「政局」を作り出すような報道に至らしめたやり方には、どうも首をかしげたくなる気分であります。この点もまた実にスッキリしないのです。

この問題に関しては、大臣の発言の善し悪しとは別の問題として、上記のような観点に立って果たして細心の注意をもって報道がなされていたのか、メディア自身が自己の対応をしっかりと検証する必要があるのではないかと思っています。何のための報道であるのか、何が本当の報道正義であるのか、メディアがこの点で自問自答を忘れた時、社会の公器はネットの炎上騒ぎをおこす輩と何ら変わらず社会破壊に加担することになりかねないということを心して報道に臨んで欲しい、切にそう思わせられた一件でありました。


★J-CAST~大関暁夫連載「営業は難しい~ココを直せばうまくいく!」またまた更新しました。
◆自社が思う「強み」 本当は「弱み」かもしれない◆
http://www.j-cast.com/kaisha/2011/09/12106871.html
インデックス
http://www.j-cast.com/kaisha/column/kokonao/index.php

「増税議論」の前にすべきこと

2011-09-09 | その他あれこれ
野田首相就任から1週間。早くも復興財源確保の観点からの「増税」が議論され始めました。メディアの反応は基本的に「復興債償還財源としての増税という考え方は止むなし。ただし実施前にやることをやるのが条件」というもの。「やること」とは、資産売却や無駄の削減による可能な限りの努力での財源確保です。至って正論。国民の大多数は似たような見解を持って、「増税議論」の成り行きを見守っているのではないかと思われます。

そんな中、メディアで取り上げられ話題になっているのが朝霞米軍基地跡への公務員住宅建設の問題です。問題になっている理由は、そもそもこの計画は民主党政権の「事業仕分け」で「凍結」されていたものがいつの間にか「凍結解除」され、9月1日着工。しかもその「凍結解除」したのが、誰あろう野田首相(当時財務相)だったからなのです。首相が自身の政策の基本を「増税」に置くことは、個別の政治家として勝手です。しかしながら、「増税」を唱える人間が「無駄」に目を向けないというのは、全くの片手落ちであり仮に松下政経塾出身の政策通であったとしても、“現実離れの夢想政策家”であるとの誹りを免れ得ないのではないかと思うのです。

世論の大勢が口々に唱えているように、まずするべきことは「無駄の排除」。民主党政権が政権奪取当初に実施した「無駄の排除」に向けた目玉政策のひとつが「事業仕分け」であった訳ですが、この「事業仕分け」は朝霞の問題を見る限り現時点での評価としては、結局パフォーマンスにすぎなかったという感じが強くしています。個別の施策を取り上げて一旦は個々に予算申請を突き返しながらも、大枠での政府としての方針がないがために、賢い官僚たちに上手に論理づけられた再検討案で丸めこまれてしまい担当大臣が官僚を敵に回したくないが故に結局承認印を打つという、“ゾンビ復活”の構図が出来上がってしまっているのです。

ではどうすればいいのか。例えば今回の朝霞の話、個別の議論としてではなく「事業仕分け」を経た公務員住宅に関する「凍結」「再検討」議論として捉え、根本的な問題として「公務員住宅は必要なのか」「部分的に必要であるとするならどういうケースか」等を議論、政府としての「公務員住宅政策」を明確にし、それを物差しにした上で今あるモノの「廃止」「売却」「賃料見直し」や建設計画の「中止」「縮小」等を具体的に決めて財源を確保する必要があるのではないかと思うのです。絶対的な権限を持つ訳でもなく、しかも全て各論のみで問題解決をしようとした「事業仕分け」は、“守る側”の官僚から見れば抜け穴だらけであり、結局何の成果も生まなかったと言われても仕方ない状況であると朝霞の一件は我々に教えてくれてもいるのです。

財源議論を悠長に構えている時間はないのだと、言われる向きもあろうと思います。一案として、今はまず国民の善意を背景にして使途別「無利子の復興債」を10年~20年償還で発行し、その償還原資が必要となるまでの間に、上記のような根本的な政府方針議論を優先させて財政政策の基本理念を作り上げてそれに沿った個別政策(公務員住宅の見直し、政府保有株の売却等)により財源をねん出、不足分を増税でまかなう、そんなやり方が真の公務員改革にもつながり一番ふさわしいやり方なのではなかと思っています。各論から入り小手先で細々(こまごま)したことをやろうとすればするほど、結局官僚の悪しき既得権はうまく言いくるめられた末に守られ何も改善しないことになるのです。

復興に向けた国の財布を握る新財務相が、新聞記者出の“ど素人”になってしまったことも官僚から見れば組みしやすく、不安は募るばかりです(詳しくは存じ上げませんが、彼の言動を見る限りにおいては期待薄でしょう)。首相は大臣の任命責任も含めた責任感をしっかり持って、財務相を中心として長期的展望の上に立った財務政策について明確なビジョンをまとめ、まずはそのビジョンに関しての国民的議論を展開して欲しいと思います。各論たる「増税」の可否議論は、それが大前提となるのではないでしょうか。

見る者を引きつけるスポーツの“世界レベル”とは

2011-09-05 | その他あれこれ
週末は世界陸上に男子サッカーワールドカップ予選、女子サッカーオリンピック予選と、「世界レベル」のスポーツ中継が目白押しでした。

なかでも「さすが!」と思わせられたのは、世界陸上。世界新記録は1つだけと記録面ではやや低調な大会ではあったものの、男女のあらゆる種目で「世界レベル」を感じさせられる真剣勝負が繰り広げられました。特に昨日最終日の男子、女子の各4×100リレーは圧巻でした。女子はアメリカチームの強いこと強いこと。男子はボルト率いるジャマイカの独走劇にしびれました。ライバルアメリカとイギリスチームのバトンミス失格やその影響を受けてのトリニダートトバコチームの不利などあったものの、真剣勝負故のアクシデントは見る者も納得させるすがすがしさが漂うものです。何のスポーツでもそうですが、緊迫感あふれる“世界レベル”の戦いはおもしろい!日本の男子サッカーが今空前の人気になっているのも、ようやく日本のサッカーも常に緊迫感あふれる「世界レベル」のプレーを見せてくれるところに至った結果であると思っています。

それに引き換え残念だったのは女子サッカー、なでしこジャパンの対韓国戦でした。スピード感ゼロ、中だるみ感満載、動きはにぶい、パスは通らない…、いろいろ理由はあったのでしょうが、日本人として「なでしこ」は応援したいもののこれでは女子サッカーの試合をまた見たいとは決して思わせない体たらくぶりでした。私が感じたイメージ的には何度挑戦してもワールドカップに出場できなかった頃の日本男子か、はたまた高校サッカーか…。女子サッカーの試合をじっくり見たのは初めてでしたが、女子サッカーのレベルって果たしてどうなのか、ワールドカップ開催するレベルにあったのか、オリンピックの正式競技とする価値があるのか等々、純粋な疑問を抱かざるを得ない試合ぶりでありました。

確かにメディアの大騒ぎと、管内閣の人気取り策での国民栄誉賞受賞で、なでしこリーグ自体に以前の何十倍もの観客が集まるほどの盛り上がりぶりになってはいるものの、あんな試合を見せられたのではなるほどそれまで観客が全然集まらなかった訳だと思わずにはいられません。試合によっては見る者に「世界レベル」を全く感じさせない状況では、果たして今後も継続的に盛り上がることができるのか、かなり不安な実情であると言わざるを得ないでしょう。本人たちは、意に反して勝手に持ち上げられたのだとすればある意味では被害者かもしれません。持ちあげすぎたメディアやそれに便乗した政治の責任は重いのかもしれません。ただ、“俄かヒーロー”として持ちあげられるテレビ番組の出演オファーに積極的に応え、受賞にふさわしいかどうかの自問自答をすることなく前向きに国民栄誉賞も受けた訳ですから、そこから先は彼らの責任も当然に発生すると考えます。

とすれば、とにかくワールドカップ優勝や国民栄誉賞受賞に恥じない試合ぶりは常に心がけなくてはいけないでしょう。たとえ敵地での悪コンディション下での試合であったとしてもです。常に見る者を引きつける緊張感あふれる真剣勝負でなくてはいけませんし、それができて初めて「世界レベル」であると言えるはずなのです。私のような素人が見ても、スピード感ゼロ、中だるみ感満載では、結局“作られたヒーロー”として短命に終わってしまうと思うのです。今なでしこジャパンの試合には、オリンピックに出場できるか否という問題以上に、女子サッカーのスポーツとしての観戦価値や国民栄誉賞受賞価値が問われているということをもっと意識して、緊張感あふれる「世界レベル」の試合を見せてほしいものです。それが何よりも、女子サッカー人気が本物になるか否かの大きなポイントであると思うのです。


★J-CAST~大関暁夫連載「営業は難しい~ココを直せばうまくいく!」またまた更新しました。

http://www.j-cast.com/kaisha/2011/09/05106229.html
インデックス
http://www.j-cast.com/kaisha/column/kokonao/index.php

フェイスブックのすすめ!

2011-08-19 | その他あれこれ
以前から気になっていたフェイスブック。お盆休みを活用して、情報書を読みあさりつつ始めてみることにしました。

ツイッターは「始める、始める」と言いながら約2年、結局(自分で“つぶやく”ことを)始めることなくここまで来てしまいました。その理由はただひとつ「匿名性」の双方向コミュニケーションがはらむ危険性の問題です。自己の考えや感じたことをリアルタイムに“つぶやく”ことの有効性は確かにありますし、先の震災時の緊急情報連絡ツールとしての機能性の高さも認めるところではありますが、双方向コミュニケーション・ツールとしての真の有効性を考えたときに、やはりひっかかるのが“匿名性”の部分であるのです。ケースによっては、「言いっぱなし」や言われなき「非難」といった問題発言がいわゆる「炎上」を引き起こす例も間々あります。当の本人に正当な理由説明の場も与えられずに「閉鎖」に追い込まれた有名人のツイッターもこれまた間々あります。言ってみると、本来「2ちゃんねる」あたりで繰り広げられるべき“無責任発言”が、堂々と本人に対して匿名で行われてしまうという双方向コミュニケーションの根本概念を覆すような事態が間々起きているわけなのです。信奉する著名な方をフォローしてその方の“つぶやき”を聞くというのは十分有効性ありな訳でして、ミニブログとしての本来的な機能のみを活用させていただくのがふさわしいツールなのかなと思う次第です(「青山カレー工房」は、利用者の皆さまへの情報伝達ツールとしてツイッターを使うことにしました。もちろんご意見・ご要望もお受けします)。

一方、フェイスブックは本人が素性を宣言して始めるのが基本です。しかも「友達」という形でお互いの存在を確認しながらコミュニケーションの輪を広げていく。展開としては「友達の友達は皆友達」的な広がりが、無限の情報共有サークルとして形作られていくわけです。リアルの世界とは違った匿名性こそがネットの良さではないのか、と考えられるむきもあるのかもしれませんし、それを全否定するつもりもありません。ただ、ネットの世界がここまで存在感を増し、市民権を得たコミュニケーション・ツールとなっている以上、あえて実社会と同じく匿名性を排除しつつもリアルではできない世界に広がるネット独自のの有効性を活用するツールがあってもいいのではないか、という考え方がフェイスブックに対する支持を急激に増加させているのではないかと思うのです。言ってみるとバーチャルの利点を活用したリアルの世界がそこにはあるわけで、まさにネットの世界は新たな時代に入ったと言っていいと思います。

始めてまだ数日ではありますが、なかなかおもしろい。いろいろな使い道がありそうで、可能性は無限に広がるように感じています。ちょうど、15年ほど前に初めてPCを購入してインターネットやメールを始めたときに感じたのと同じワクワク感を覚えます。組織、サークル、同窓会等の切り口での使い道やアプリを活用した使用法等、かなりいろいろな機能があるのでまだまだ使い込まないと十分なメリットは享受できないように思いますが、とりあえずスタート5日でかなりハマったことはまちがいありません。2年前のツイッターの時に直観的に「これはちょっと違わないか?」と感じたのとは雲泥の差です。既に相当ご無沙汰の旧友何人かとも“友達関係”を結ぶことができました。もちろん旧友を探すためだけに使ったのではもったいないツールですが、それもまたフェイスブックの付加価値的楽しみとして位置付けてみるのはいいのではないかと思います。

私の新旧お友達の方、新たにお友達になっていただける方、ぜひフェイスブックで「友達検索」して私に連絡をください。大きなコミュニケーションの輪をつくれれば、皆でより有益でより楽しいフェイスブック・ライフが送れるのではないかなと思っています。当ブログをお読みの皆さんにもフェイスブック活用をおすすめいたします。

復興財源確保に関する私的提案

2011-08-17 | その他あれこれ
“菅後”の政局を巡ってあわただしい動きが報道されています。焦点は何と言っても震災復興です。これまで菅内閣下では、明確なビジョンも方針もないままダラダラと5カ月が過ぎてしまった感が強い訳で、民主党政権にとって国民の信頼を取り戻すラストチャンスであるとも言えるでしょう。ただどうも見ている限りでは、あまりに心もとない。例えば、出馬を予定している野田財務相が口にしている「大同連立」も今言うべき事かどうなのか。連立の是非は政策論ではなく方法論に過ぎず、各候補者は正式立候補に際しては現在の日本が抱えてる焦点の問題に関して、明確なビジョンや方針をまず掲げるべきであると思います。

関連してひとつ思いつきの私的提案です。あくまで思いつきレベルでありますが、財源確保に関する個人的アイデアを書いてみます。

「日本の強み」は何かと考える時、なぜ今円高なのかを考えてみると浮かび上がるヒントがあります。それは膨大な「個人資産」。約1500兆円と言われる我が国の「個人資産」の存在が“借金まみれ”の我が国財政を底支えしているという構図を作り出し、壊滅的欧米の経済財政情勢に比しての消去法的選別の結果として、昨今の理由なき円高の一因となっているとも言われています。そこで、この「個人資産」を上手に復興財源として活用できないだろうか、という発想に転換してみます。さらにもうひとつ「日本の強み」として今回の震災復興でも見せてくれた、日本人の自発的ボランティア精神の強さも活用できないものか、という考え。この2つの強みを活用した復興財源確保策を考えます。

今取りざたされている「復興債」。当然国債を発行すれば利払いをしなくてはいけない訳で、政府保有株の売却等が言われていますが膨大な利払いを賄うためには「増税」をも視野に入れざるを得ないでしょう。そうかと言って復興にメドの立たない段階での「増税」は、景気の先行きに暗い影を落とします。そこでこんな案はどうでしょう。例えば「利払い」のない債権の発行。「利払い」がない債権をどう買わせるのかですが、もっとも簡単なアイデアとしては「復興債」を細かく分かりやすい目的別に分けて発行する案です。例えば、「今回の債券は南三陸町の道路整備に使用します」とかの明言化です。これは言ってみれば「復興債資金使途の見える化」と言えるでしょう。

寄付もそうですが、日本人は強い被災地支援精神を持ちながら、行き先の不明確なおカネの流れにはいまひとつスッキリしていないもの事実です。街頭で耳にするのは「使い道が明確ならもっと協力したい」との声。ならば、「復興債」の使い道を明確にするだけで、たくさんの寝ているおカネが動きだすのではないでしょうか。あれだけの義援金が集まったことを考えれば、「無利子でも復興支援になるなら復興債を買おう」となるのではないかと思う訳です。しかも寄付ではなく国への“貸付”ですから。さらに資金使途が「見える化」されれば、国民が優先度を認めない使途の債券には資金が集まらず、施策が先送りあるいは中止され、無駄遣いの排除にもつながるという一石二鳥でもあります。

「利払い」が発生しないなら当面の「増税」は避けられます。ならばまずは政府は「復興ビジョン」を明確化し、そのビジョンの復興計画期間にあわせた長期の「復興債」を発行、償還までの間に「増税」も含めた徹底した「財政再建」を策定・実行し償還原資を確保する、という流れが可能ではないかと思うのです。これが実現するなら、「財政再建」も「増税」頼りの小手先ではなく、国として計画的に長期で取り組むという姿勢を明確にできるいい機会になるのではないかと考えますが、いかがでしょうか。

また「復興過程において「増税」をする場合には、債権保有者に優遇措置の可能性あり」というアナウンスも「復興債」購入動機づけとしてあっていいかもしれません。これは、たばこ税や酒税等の間接税引き上げ政策を債権保有者への税率据え置とセットで実施する、とかです(根幹をなす直接税や生活直結の消費税は優遇対象になり得ません)。この施策はそのまま実行したのでは「税負担公平の原則」から批判もまぬがれえないでしょうから、やり方にひとひねりふたひねり必要とは思いますが…。いずれにしましても、寝ている「個人資産」をいかにして有効に目覚めさせ、日本人のボランティア精神に訴えかける復興財源確保策を考えだすか、安易な「増税」策に頼るのではなく今こそ知恵を絞るべき時ではないかと思います。

実行できるか否かは別にしても、国家的危機打開に向けてまず必要な「財源確保」に関し何も言わない何も提案しない今の政権は、国民に考える場すら与えず政府としての体をなしているとは到底言えないでしょう。誰が政権を継ぐことになるとしても、一国のリーダーとして国民に未来の日本づくりに向けた前向きな具体論を提示し、皆で“復興日本”に向けた次の一歩を議論できるような土壌を作って欲しいと思います。

補足

2011-08-07 | その他あれこれ
5日記載のフジテレビの一件に関して、周囲の複数の方から「これまでの主張を知らない人には、フジ批判の立場なのか擁護の立場なのか見えにくい」「より詳細な解説がないと誤解を生む表現があるのではないか」等のご意見をいただきました。補足します。

私は当ブログにて以前より、ビジネス至上主義の民放メディアの経営姿勢における問題点を繰り返し指摘してきております。特に震災発生直後には、計画停電下における民放の放送自粛による国家的危機への協力対応を強く主張し、その根本的な経営姿勢転換の必要性を何度も投げかけてまいりました。このように、基本的にはテレビメディアの「経営姿勢」に対しては批判的立場でこそあれ、擁護的な立場でモノを申し上げたことはありません。

今回の件もそれを大前提として記しています。今回はテレビメディアが抱える多くの問題点のひとつが韓流傾倒批判という形で表面化したものではありながら、テレビメディアの成り立ちに起因する経営姿勢が生み出す問題の根深さを考えるなら、世間がこれまで震災時対応をはじめテレビメディアのビジネス至上主義の重大な悪癖を多々見過ごしてきながらこの問題に関してのみ大騒ぎし表面的なフジの姿勢の善し悪しを問うのは、本質的な問題解決議論からは程遠い、とまず考えました。さらに、問題が“嫌韓”か否かにすり替わり議論を戦わせているという様相を知り、「脇道にそれた議論であり、かえって論点がみえにくくなっておかしい」と考え、ブログ記載に至ったわけです。

★表現上、説明不足で「擁護的立場」との誤解を生みかねないとのご指摘をいただいたのは以下の部分です。
「韓国企業がフジテレビのスポンサー的立場で韓流ドラマやK-POPをプッシュしているのなら、テレビの姿勢の善し悪し問うのは根本的におかしい、ということになるのです。」
<説明>この部分は決してフジのやり方を容認するものではなく、「民放テレビのビジネス至上主義の経営姿勢がそうさせているのであり、その根源であるテレビメディアの成立経緯等に言及することなく個別の制作姿勢の善し悪しを問うても、結局トカゲのシッポ切りを促すような話になりかねず何の解決にもならない」ということがこの部分で申し上げたかった趣旨です。さらにこの後「個別の制作姿勢の善し悪しの観点で問題を問うから勢い「嫌韓」議論に流れてしまうわけで、これでは全く意味をなさない」と結んだ所存です。

テレビメディアの経営姿勢がはらむ問題点改善に関しては、テレビメディアを見る側の意識改革もまた同時に求められる問題であり、地デジ化による我が国テレビメディアの本格的多チャンネル化が視聴者とテレビとの関係に多少なりとも変化をもたらすことで、少しでも是正される方向に進んで欲しいと望んでいます。

“海江田大臣の涙”を巡って・・・。

2011-08-03 | その他あれこれ
先週、海江田万里経済産業相が国会で涙を見せた、と話題になっていました。事情を勘案すれば確かに「悔しかろう」です。“泣き”の引き金を引いたのは自民党議員の「辞任を示唆しながら辞めないのは“菅直人首相とそっくり”」という一言。こりゃキツイ。何しろ、海江田大臣は菅首相に対し言いたいことを沢山腹に溜めているわけですから。

まずは、与謝野議員を引っ張り込んで内閣改造をはかった際の処遇。金融財政担当を本人の意向も汲まずいとも簡単に解任されたという辱めを受けました。考えて見れば、与謝野氏と海江田大臣は同じ東京1区。しかも与謝野氏は他党を離脱し“俄かシンパ”として近づいてきたいわば外様であり、それに自身の席を追われるなどと言うこれ以上ない辱めを受けたのです。組閣後の会見では、「忸怩たる思い」をメディア相手に切々と語っていた海江田大臣。与謝野氏が故宮沢元総理ほどの金融財政通であるならともかく、リーマン破綻を「ハチが刺した程度」と言ってしまうほどの実態経済オンチな訳で、海江田大臣の肩を持つ訳ではありませんが、こりゃちょっと気の毒だなと思ったものです。

そして震災後の一時停止中の各地の原発再開に関して、玄海原発再開の見通しを語った直後に管総理突然の「ストレステスト実施」発言。大臣を無視した(と言うよりは眼中にない)思いつき発言のようでもありましたが、傍で見ていて「なんだこの梯子(ハシゴ)外しは?」と言った印象で、「もしや閣内イジメでは?」と思うほど。席を追われた上に国会答弁の場でいきなりの梯子外しですから。怒り心頭でしょうね。顔を紅潮させ「いい加減にしてくれ」と言わんばかりの表情で総理を見ていたのが、あまりに印象的ではありました。

それにしても、「○○さんに似ている」と言われて泣くほど悔しいってどんなレベル?あまり想像ができないですよね。私の経験を振り返ってみても、ちょっと思い当たるものがありません。ならば、自分に置き替えた場合誰に「似ている」と言われたら「泣くほど悔しい」でしょうか?皆さんはどうですか?よほど嫌いな人物であること。それも半端なく。ある意味軽蔑している人物に「似ている」と言われたらどうか。でも嫌いとか軽蔑のレベルでは、「怒り」はあっても「泣く」まではいかないかもしれません。ならば、本当に憎い奴、例えて言うなら「親の仇(かたき)」ぐらい憎い奴でしょうか。いやいや「親の仇」よりも「子の仇」でしょう。子供を殺された親が、その殺した相手に似ていると言われたら・・・。そのぐらいあり得ない屈辱感にまみれた辛さがないと、悔しくて「泣く」には至らないでしょうね。

そうやって考えると、想像を絶するほど辛いことであったと分かります。なのに涙の原因である首相サイドには、輪をかけてバカな輩がひとりいました。菅首相の奥方、伸子夫人です。31日に公邸で開かれた菅首相を囲む民主党議員らとの懇談会に出席し、「泣くような人に大臣は任せられない。あなたが泣いたら別れるわよ」と首相にハッパをかけたとか。信じられない発言。泣いた人は夫のせいで泣いたんですよ。しかも相手は、同じ党の内閣を担う大臣。ご夫婦そろって稀に見るほど「空気を読めない」方々です。先に分析したように、大の大人が人目を憚らずに(しかも国会という公の場で)泣くなんぞと言うのは、事の善し悪しは別にして、尋常な状況ではない訳です。しかもその原因を作った張本人の身内から出たこの発言、殺人犯の妻が「殺されるヤツの方が悪い」ぐらいのことを言い放ったようなものです。これは普通、人道的にどうかっていうレベルです。“ファースト・レディ”の言葉とは、到底思えません。

同じ政権を担当する党内で、泣いたり泣かせたり。泣く方も泣く方ですが、泣かせた側は泣かせた側でさらに上塗りで空気が読めない・・・。もう今の民主党政権をこれ以上象徴する出来事はありません。こうして長々書くほどの“事件”ではなかったのですが、考えれば考えるほど情けなく、ついつい書いてしまいました。こんな末期症状の政権に何が期待できるのでしょう。だからと言って、震災のせいで今すぐには総選挙すらできない。震災復興に向けてこれといった力もなく、“実態なき円高”に対してもなすすべなし・・・。泣かせているのは大臣ばかりでなく、むしろ一番泣きたい気持ちなのは国民であることを民主政権は今一度よく認識すべきであると思います。海江田大臣の涙が、国民の気持ちを代弁するつもりのものであったのなら、価値ある“男の涙”であったと言えるのですが、果たして・・・。

★J-CAST~大関暁夫連載「営業は難しい~ココを直せばうまくいく!」更新しました!
http://www.j-cast.com/kaisha/2011/08/03103440.html
インデックス
http://www.j-cast.com/kaisha/column/kokonao/index.php