静聴雨読

歴史文化を読み解く

大内山という力士がいた=相撲の話=

2006-05-19 05:17:26 | スポーツあれこれ
栃錦と若ノ花が活躍して「栃若時代」と称された相撲の全盛期がありました。昭和30年代でしょうか。この二人はともに俊敏な動きで圧倒する相撲で、今でいえば、朝青龍のような力士です。もちろん、周りにも個性あふれる力士が揃っていて、例えば、小兵だが技に冴えをみせる信夫山、大きい上に幅も厚い巨起、腹に相手を乗せて運ぶといわれた羽黒山、など多士済々でした。その中で、さらに異色の力士がいました。それが大内山です。

茨城県の那珂湊の漁師のせがれであった彼は、小さいころから海に出ては櫓を漕いでいたため、足腰と腕っぷしが鍛えられました。それを見込まれて相撲界にスカウトされました。長身(6尺=198cm)も魅力でした。体型は、今でいえば、琴欧州のようです。

順調に出世して、幕内力士になるのにそれほど日はかかりませんでした。しかし、それから、彼の苦闘が始まります。その訳は、彼の不器用さにあります。彼の得意は一応右四つですが、その得意になれるのは十番に一番もないほどなのです。脇が甘いため、すぐ相手に双差しになられるか横につかれるか、されてしまいます。しかたなく、相手の腕を抱えるか、さらに困ったときには相手の肩越しにまわしをとりにいきます。当然、腰が伸びてしまいます。そんな不得手な体勢になっても、彼は持ち前の足腰の良さと腕っぷしの強さで非勢を挽回し勝ちを拾っていきました。

大内山は一度だけ優勝争いをしたことがあります。関脇のときに、13勝2敗で横綱・千代の山と優勝決定戦に持ち込みました。本場所では、大内山が千代の山を降しています。大内山の初優勝が大いに期待されました。私も彼を応援していました。しかし、優勝決定戦では大内山はあっさり負けてしまいました。不器用さと並んで、人一倍気の弱いことが彼の欠点でした。優勝決定戦のような晴れの場では、闘う前に萎縮してしまったのです。

その後、大関まで昇進しましたが、彼を奇妙な病気が襲いました。アゴの骨が伸びてくるという病気です。そのため数場所全休し、番付は幕尻近くまで降下してしまいました。平幕では格が違い、常に幕内上位から三役で数年間相撲を取った末引退しました。しかし、もはや優勝争いに絡むことはありませんでした。

大内山のベスト・ファイトは、対栃錦戦です。大内山が珍しく猛烈に突っ張り、栃錦がそれを掻い潜ろうと粘りました。大内山が土俵際まで押し込み、勝負あったと誰もが思った瞬間、栃錦が捨て身の首投げをうったのでした。大内山が一瞬はやく土俵に落ちました。もちろん、栃錦も土俵溜りまで飛んでいました。あの時の場内の喚声はすごいものでした。評論家は、栃錦の執念が優った、と評しました。確かに、大内山からは執念を感じることは少なかったように思います。

不器用さと、気の弱さと、執念の不足と、奇病。この4つが大内山を超一流の力士となるのを妨げました。しかし、そのような力士をやきもきしながら応援していたファンもいたのでした。

今、大相撲では、エストニア出身の把瑠都が活躍しています。彼の相撲ぶりを見ていて、大内山と似たところがあるのに思いあたりました。肩越しにまわしを取りにいく取り口です。大内山は把瑠都を更に不器用にした力士といえば、イメージが湧くでしょうか。  (2006年5月)


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1 コメント

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マンガ喫茶から愛を込めて♪ (名無し)
2006-05-19 05:18:51
ボブイエーイ(∇≦d)(b≧∇) イエーイ

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