(1) アメリカ
アメリカの東海岸に仕事で出張した時のこと。
昼食のために街角のレストランに入って、帆立貝のシーフード・サラダを注文した。昼食なので、軽く済ませたいという思惑で注文したのだが、出てきた料理を見て驚いた。かなり大きなボウルに、野菜が満載で、その中に生の帆立貝も見えている。これを食べ始めたのだが、食べても食べてもなくならない。ついに食べきれなくて、完食をギブアップした。小ぶりではあるが、まるごとの帆立貝が20個以上入っていたようだ。
アメリカの食習慣を実感した思いであった。
この例のように、アメリカでは、一食の量が例外なく多い。これを、朝・昼・晩摂っていたら、確実に、肥満体になるか、体を壊すか、してしまう。
これを防ぐ手段は、食事の量を減らす(つまり、残す)か、食事の回数を2回に減らすしかない。
しかし、仕事の相手先との会食(「横メシ」ということばがあった。)を省くわけにはいかないし、アメリカでの食生活は不便この上ない。
アメリカですぐ目につくのは、セイウチかとどのような体型の人が多く、しかもその人たちが、勤め人なら働いている週日の昼間に数多く「ジョギング」していることだ。
アメリカに滞在した経験のある人には、よく食べる健啖家が多いように思う。体型からは考えられないほどよく食べる。これは、アメリカでの食生活で鍛えられた・あるいは習慣づけられたためだと私は推測している。
小柄な先輩と中華料理屋に入り、私は飯類+小ラーメン、先輩は麺類+小チャーハンを注文したのだが、私が小ラーメンには手が回らなかったに対して、先輩は小チャーハンまで見事に完食した。先輩は、ハーバード大学を出て、アメリカの企業で勤務した経験を持つ。このくらい食べて当然なのだ。
別の先輩と昼食をともにするときにも、いつもその食べぶりに感心する。この先輩は、アメリカの現地法人に数年間出向した経験がある。
さらに別の人で、私より若い人だが、アメリカの現地法人に長く勤務していた日本人は、仕事が終わってから、自宅でもてなしてくれたのだが、彼は、自ら、客人のために、庭に出て、鉄板で大きなビーフ・ステーキを焼いて、ふるまってくれた。そのステーキの大きさにもびっくりしたが、彼のエネルギッシュな動きにも驚いた。アメリカで生活するということはこういうことか、と頷いた。
どうやら、アメリカでは、「大食い」が一つの文化になっている、といえるかもしれない。
(2)ヨーロッパ
アメリカからヨーロッパに飛ぼう。
大学の指導教官がイタリアでの学会に出席して帰って来られ、土産話を伺った。「君、イタリアでは、スパゲッティが前菜なんだそうだよ。」
正餐では、アンティ・パスタ(前菜)としてシーフードのマリネが出、次にスパゲッティが出る。もちろん、パンもついている。先生はここまででもう腹いっぱいになってしまった、とおっしゃる。まだ、メイン・ディッシュの肉料理が残っていて、これに手をつけるのに難儀されたそうだ。さすがに、その後のデザートはパスした、と回想しておられた。
ことほど左様に、イタリアの食事は豪華だ。
同じような事情がフランスでも見られる。
哲学者ジャン・ポール・サルトルの晩年のこと、すでに歩様もままならなくなっていた彼が、アパルトマンから出てレストランに入り、普通の昼の定食を食べきったということを誰かの回想で読んだことがある。
ここで、「定食」とは、前菜、スープ、肉の主菜、デザート、コーヒーから成るコース料理のことだ。主菜の肉料理の量も多い。晩年のサルトルは、(自宅で食事する習慣がないせいもあって)必ずレストランに赴き、定食を注文して完食したそうだ。
もう一つ、私の経験を述べる。
仕事相手と魚料理屋に入って、私は「ムール貝」を注文した。出てきたものを見て、びっくりした。小さなバケツほどの容器にムール貝の蒸したものが入っている。一つ一つ貝殻から身をはがして食べたのだが、全部で108個のムール貝が入っていた。初めの30個くらいまでは旨いと思って食べたが、以後は惰性で食べ終わったようなものだ。
この話には余談があり、仕事相手も「私もそれにしよう。」といって、「ムール貝」を注文したのだ。それで、二人してムール貝と悪戦苦闘したわけだ。
フランスでもイタリアのように皆よく食べる。
他の国のことは詳しく知らないが、例えば、ドイツでは、主菜に添えられる山のようなジャガイモの蒸して漉したものなどを見ると、やはり、彼らも「大食い」なのだろう。
ヨーロッパでも、「大食い」が一つの文化になっている、といえる。
(3)アジア
ヨーロッパからアジアに飛ぶ。
アジアでは、大食いの様相は一律ではないようだ。
韓国ソウルでのこと。
韓定食ではずらっと並ぶ皿にびっくりするが、普通の食事でも、主菜のほかに小鉢が多くつく。これは別に注文したものではなく、付け合せの小鉢なのだ。多くは野菜を唐辛子で味付けしたもので、キムチはその代表だ。辛味は食欲を刺激するし、野菜は主菜の肉・魚とのバランスを取る役割があって、それなりに合理的だ。それにしても、皿の数が多いし、量も多い。現地人の食べぶりを観察すると、必ずしも小鉢を全部平らげているわけではないようだ。好きなものを好きなだけ摂り、後は残すというのが韓国人の流儀のようだ。
さて、ある庶民的魚料理屋でのこと。
フグのちり鍋がリーズナブルな価格で食べられるということで、注文してみた。すると、お馴染み、テーブル一杯になるほど、小鉢が並べられた。さらに驚くことに、大きな皿に、「サンマの焼き物」が一尾ドーンと鎮座していた。さて、「サンマの焼き物」は注文した覚えがないのだが。どうやらこれも付け合せの一品のようだ。
「フグちり」の付け合せに「サンマの焼き物」とは!すぐに配膳されたところを見ると、この「サンマの焼き物」は作り置きのようだ。熱も冷めていて、うまくない。
何も、「サンマ」を貶めるつもりはない。熱々のサンマの塩焼きに大根おろしが添えてあれば、それだけで、主菜を張れるほどの立派な料理だ。しかし、冷めたサンマを付け合せで出されては、サンマの有難みが吹き飛んでしまう。
韓国では、料理の量を多くして、客をもてなす文化が根付いているのだろう。
アジアのほかの国の大食い事情はどうか?
韓国以外のアジアの国に大食いの文化はあるのだろうか?
中国では、一つの皿の量が日本などと比べてやや多いが、これは注文する皿の数を調節することで、大食いは回避できる。つまり、誰でもたくさん食べなければならないわけではない。
また、多人数の会席では、多くの皿を取り分ける習慣があるので、これは、大食いにも少食の人にも便利なシステムだ。
もちろん、中国にも、「満漢全席」という贅沢な会席料理があるが、これは一部富裕層向けの料理で、一般の人々には縁のない料理だ。
他に、タイの例がある。ここでは、一つの皿の量もリーズナブルで、注文する皿の数も自由に選べる。日本の食習慣と似ているようだ。バンコクの街中で、極端に肥満した人間を見ることは滅多にない。
(4)日本
さて、わが国に戻ってみよう。
一度だけ、築地・治作の会席料理を味わったことがある。
そのメニューは次のようだ。
食前酒
先付
前菜
小茶碗
おつくり
焼き物
鍋
煮物
揚げ物
酢の物
ご飯
止め椀
香の物
水菓子
これでは、中国の「満漢全席」と同じで、全部を味わうことなど到底できない。日本料理の会席とは、所詮富裕層向けの料理にすぎない。
一方、普通の人が日常食べる料理は、世界の中でも珍しいほど、量が少ないといえる。
また、多くの人が囲む鍋料理では、中国の例と同じで、基本的に「取り分け」を前提にしたシステムなので、誰もが好きなだけ食べることができるようになっている。
以上、アジアでは、韓国のように大食いが普通になっている国と、中国・タイ・日本のように大食いが常態となっていない国とに分かれている。
(5)大食いの背後にあるもの
世界の「大食い」事情を見てきたわけだが、なぜ大食いの習慣が発達してきたのだろうか? それを考えてみたい。
もともとは、大食いができたのは限られた富裕層だけだった。フランスやロシアの宮廷料理や中国の満漢全席に象徴されるように、大食いは富裕層特有の生活形態だった。
それが、なぜ、普通の庶民にまで、大食いの習慣が広がってきたのか? 実は答えをまだ持っていない。一つだけ、ヒントがある。
大食いの習慣が広く一般の人々にまで広がっているアメリカ・イタリア・フランスに共通している食事習慣がある。それは、各人のメニューが各人に閉じていることだ。難しくいわなければ、「取り分け」の習慣ができていないのだ。
「私は、鴨料理を頼もう。」「私は、『海の幸 Fruits de Mer 』にするわ。」
二人はそれぞれ自分の注文した料理に専念する。
「その牡蠣おいしそうだね。一つもらっていいかな?」「どうぞ。私にも鴨をいただける?」このような会話がアメリカ・イタリア・フランスの食卓では成り立たない。これが個人主義の賜物だとしたら、考え込んでしまう。
一方中国や日本では「取り分け」文化が浸透している。「取り分け」でいいところは、各人の食事量を各人が自由に決められることだ。これで、「食べろ、食べろ。」の押し付けがなければいうことなし、だ。
実は、「大食い」について考えてみようと思った訳は: 「メガ牛丼」や「メガ・プリン」がはやっていると聞き、なぜだろう? というところから来ている。これらの大盛りメニューを注文する人たちがすべて富裕層とは考えにくい。「ヤケの大食い」のことばがあるが、あるいは、ここらあたりに真実があるのではないか。つまり「ストレス解消」のための大食いなのではないか?
「大食い」がストレス解消の方策だとしたら、まさしく、大食いは「文明の病」の表徴ではないだろうか? (2008/1-2)
アメリカの東海岸に仕事で出張した時のこと。
昼食のために街角のレストランに入って、帆立貝のシーフード・サラダを注文した。昼食なので、軽く済ませたいという思惑で注文したのだが、出てきた料理を見て驚いた。かなり大きなボウルに、野菜が満載で、その中に生の帆立貝も見えている。これを食べ始めたのだが、食べても食べてもなくならない。ついに食べきれなくて、完食をギブアップした。小ぶりではあるが、まるごとの帆立貝が20個以上入っていたようだ。
アメリカの食習慣を実感した思いであった。
この例のように、アメリカでは、一食の量が例外なく多い。これを、朝・昼・晩摂っていたら、確実に、肥満体になるか、体を壊すか、してしまう。
これを防ぐ手段は、食事の量を減らす(つまり、残す)か、食事の回数を2回に減らすしかない。
しかし、仕事の相手先との会食(「横メシ」ということばがあった。)を省くわけにはいかないし、アメリカでの食生活は不便この上ない。
アメリカですぐ目につくのは、セイウチかとどのような体型の人が多く、しかもその人たちが、勤め人なら働いている週日の昼間に数多く「ジョギング」していることだ。
アメリカに滞在した経験のある人には、よく食べる健啖家が多いように思う。体型からは考えられないほどよく食べる。これは、アメリカでの食生活で鍛えられた・あるいは習慣づけられたためだと私は推測している。
小柄な先輩と中華料理屋に入り、私は飯類+小ラーメン、先輩は麺類+小チャーハンを注文したのだが、私が小ラーメンには手が回らなかったに対して、先輩は小チャーハンまで見事に完食した。先輩は、ハーバード大学を出て、アメリカの企業で勤務した経験を持つ。このくらい食べて当然なのだ。
別の先輩と昼食をともにするときにも、いつもその食べぶりに感心する。この先輩は、アメリカの現地法人に数年間出向した経験がある。
さらに別の人で、私より若い人だが、アメリカの現地法人に長く勤務していた日本人は、仕事が終わってから、自宅でもてなしてくれたのだが、彼は、自ら、客人のために、庭に出て、鉄板で大きなビーフ・ステーキを焼いて、ふるまってくれた。そのステーキの大きさにもびっくりしたが、彼のエネルギッシュな動きにも驚いた。アメリカで生活するということはこういうことか、と頷いた。
どうやら、アメリカでは、「大食い」が一つの文化になっている、といえるかもしれない。
(2)ヨーロッパ
アメリカからヨーロッパに飛ぼう。
大学の指導教官がイタリアでの学会に出席して帰って来られ、土産話を伺った。「君、イタリアでは、スパゲッティが前菜なんだそうだよ。」
正餐では、アンティ・パスタ(前菜)としてシーフードのマリネが出、次にスパゲッティが出る。もちろん、パンもついている。先生はここまででもう腹いっぱいになってしまった、とおっしゃる。まだ、メイン・ディッシュの肉料理が残っていて、これに手をつけるのに難儀されたそうだ。さすがに、その後のデザートはパスした、と回想しておられた。
ことほど左様に、イタリアの食事は豪華だ。
同じような事情がフランスでも見られる。
哲学者ジャン・ポール・サルトルの晩年のこと、すでに歩様もままならなくなっていた彼が、アパルトマンから出てレストランに入り、普通の昼の定食を食べきったということを誰かの回想で読んだことがある。
ここで、「定食」とは、前菜、スープ、肉の主菜、デザート、コーヒーから成るコース料理のことだ。主菜の肉料理の量も多い。晩年のサルトルは、(自宅で食事する習慣がないせいもあって)必ずレストランに赴き、定食を注文して完食したそうだ。
もう一つ、私の経験を述べる。
仕事相手と魚料理屋に入って、私は「ムール貝」を注文した。出てきたものを見て、びっくりした。小さなバケツほどの容器にムール貝の蒸したものが入っている。一つ一つ貝殻から身をはがして食べたのだが、全部で108個のムール貝が入っていた。初めの30個くらいまでは旨いと思って食べたが、以後は惰性で食べ終わったようなものだ。
この話には余談があり、仕事相手も「私もそれにしよう。」といって、「ムール貝」を注文したのだ。それで、二人してムール貝と悪戦苦闘したわけだ。
フランスでもイタリアのように皆よく食べる。
他の国のことは詳しく知らないが、例えば、ドイツでは、主菜に添えられる山のようなジャガイモの蒸して漉したものなどを見ると、やはり、彼らも「大食い」なのだろう。
ヨーロッパでも、「大食い」が一つの文化になっている、といえる。
(3)アジア
ヨーロッパからアジアに飛ぶ。
アジアでは、大食いの様相は一律ではないようだ。
韓国ソウルでのこと。
韓定食ではずらっと並ぶ皿にびっくりするが、普通の食事でも、主菜のほかに小鉢が多くつく。これは別に注文したものではなく、付け合せの小鉢なのだ。多くは野菜を唐辛子で味付けしたもので、キムチはその代表だ。辛味は食欲を刺激するし、野菜は主菜の肉・魚とのバランスを取る役割があって、それなりに合理的だ。それにしても、皿の数が多いし、量も多い。現地人の食べぶりを観察すると、必ずしも小鉢を全部平らげているわけではないようだ。好きなものを好きなだけ摂り、後は残すというのが韓国人の流儀のようだ。
さて、ある庶民的魚料理屋でのこと。
フグのちり鍋がリーズナブルな価格で食べられるということで、注文してみた。すると、お馴染み、テーブル一杯になるほど、小鉢が並べられた。さらに驚くことに、大きな皿に、「サンマの焼き物」が一尾ドーンと鎮座していた。さて、「サンマの焼き物」は注文した覚えがないのだが。どうやらこれも付け合せの一品のようだ。
「フグちり」の付け合せに「サンマの焼き物」とは!すぐに配膳されたところを見ると、この「サンマの焼き物」は作り置きのようだ。熱も冷めていて、うまくない。
何も、「サンマ」を貶めるつもりはない。熱々のサンマの塩焼きに大根おろしが添えてあれば、それだけで、主菜を張れるほどの立派な料理だ。しかし、冷めたサンマを付け合せで出されては、サンマの有難みが吹き飛んでしまう。
韓国では、料理の量を多くして、客をもてなす文化が根付いているのだろう。
アジアのほかの国の大食い事情はどうか?
韓国以外のアジアの国に大食いの文化はあるのだろうか?
中国では、一つの皿の量が日本などと比べてやや多いが、これは注文する皿の数を調節することで、大食いは回避できる。つまり、誰でもたくさん食べなければならないわけではない。
また、多人数の会席では、多くの皿を取り分ける習慣があるので、これは、大食いにも少食の人にも便利なシステムだ。
もちろん、中国にも、「満漢全席」という贅沢な会席料理があるが、これは一部富裕層向けの料理で、一般の人々には縁のない料理だ。
他に、タイの例がある。ここでは、一つの皿の量もリーズナブルで、注文する皿の数も自由に選べる。日本の食習慣と似ているようだ。バンコクの街中で、極端に肥満した人間を見ることは滅多にない。
(4)日本
さて、わが国に戻ってみよう。
一度だけ、築地・治作の会席料理を味わったことがある。
そのメニューは次のようだ。
食前酒
先付
前菜
小茶碗
おつくり
焼き物
鍋
煮物
揚げ物
酢の物
ご飯
止め椀
香の物
水菓子
これでは、中国の「満漢全席」と同じで、全部を味わうことなど到底できない。日本料理の会席とは、所詮富裕層向けの料理にすぎない。
一方、普通の人が日常食べる料理は、世界の中でも珍しいほど、量が少ないといえる。
また、多くの人が囲む鍋料理では、中国の例と同じで、基本的に「取り分け」を前提にしたシステムなので、誰もが好きなだけ食べることができるようになっている。
以上、アジアでは、韓国のように大食いが普通になっている国と、中国・タイ・日本のように大食いが常態となっていない国とに分かれている。
(5)大食いの背後にあるもの
世界の「大食い」事情を見てきたわけだが、なぜ大食いの習慣が発達してきたのだろうか? それを考えてみたい。
もともとは、大食いができたのは限られた富裕層だけだった。フランスやロシアの宮廷料理や中国の満漢全席に象徴されるように、大食いは富裕層特有の生活形態だった。
それが、なぜ、普通の庶民にまで、大食いの習慣が広がってきたのか? 実は答えをまだ持っていない。一つだけ、ヒントがある。
大食いの習慣が広く一般の人々にまで広がっているアメリカ・イタリア・フランスに共通している食事習慣がある。それは、各人のメニューが各人に閉じていることだ。難しくいわなければ、「取り分け」の習慣ができていないのだ。
「私は、鴨料理を頼もう。」「私は、『海の幸 Fruits de Mer 』にするわ。」
二人はそれぞれ自分の注文した料理に専念する。
「その牡蠣おいしそうだね。一つもらっていいかな?」「どうぞ。私にも鴨をいただける?」このような会話がアメリカ・イタリア・フランスの食卓では成り立たない。これが個人主義の賜物だとしたら、考え込んでしまう。
一方中国や日本では「取り分け」文化が浸透している。「取り分け」でいいところは、各人の食事量を各人が自由に決められることだ。これで、「食べろ、食べろ。」の押し付けがなければいうことなし、だ。
実は、「大食い」について考えてみようと思った訳は: 「メガ牛丼」や「メガ・プリン」がはやっていると聞き、なぜだろう? というところから来ている。これらの大盛りメニューを注文する人たちがすべて富裕層とは考えにくい。「ヤケの大食い」のことばがあるが、あるいは、ここらあたりに真実があるのではないか。つまり「ストレス解消」のための大食いなのではないか?
「大食い」がストレス解消の方策だとしたら、まさしく、大食いは「文明の病」の表徴ではないだろうか? (2008/1-2)
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