静聴雨読

歴史文化を読み解く

「裁判員制度」への疑問

2009-02-12 08:42:08 | 社会斜め読み
「裁判員制度」が始まる。司法改革の一環だそうだ。今日から、「あなたは来年度の裁判員候補に選ばれました」という「当選通知」が当選者に最高裁判所から送られてくる。

(1) 制度の理解

まずは、「裁判員制度」とはどのような制度か理解するところから始めねばなるまい。
インターネット上の百科事典「Wikipedia」にあたった。それで、ほぼその概要がつかめた。(人によっては、「Wikipedia」は個人的意見なども潜り込んでいるので、信用できないという評価があるが、個人的見解が混じっている部分には、管理者のものと思われる[要出展]という注釈が付されているので、それを注意して読めば、「Wikipedia」は十分活用できる。)

根拠法:「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(2004年成立、2009年5月21日施行)
裁判員制度が適用される事件:地方裁判所で行われる刑事裁判のうち、殺人罪、傷害致死罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、など。

裁判の構成:裁判官3名、裁判員6名。
裁判員の仕事:証拠調べ、有罪・無罪の判断、量刑の判断。

裁判員の選定:有権者→裁判員候補予定者(各年度。2950人に1人)→裁判員候補予定者(各事件ごと)→裁判員の選定、の手順による。

裁判員の義務:出廷義務(出廷しない場合、10万円以下の過料)・守秘義務(違反した場合、6ヶ月以内の懲役、または、50万円以下の罰金)

ほぼ、以上が裁判員制度の骨格だ。 

(2)専門家と初心者のチームが機能するか?

裁判員制度における裁判員は有権者の中から選ばれる。いずれにしても、裁判に関しては素人だ。その初心者と専門家である裁判官とがチームを組んで裁判に当たる。ここに無理があるだろうことは誰でもわかる。

どの分野においても、専門家がおり、その専門家の知識・ノウハウを普及する普及員がおり、さらに、初心者がいるというのが共通の構図である。このことについて、
 「ローテク」の逆襲 http://blog.goo.ne.jp/ozekia/d/20080721
というコラムで述べた。

そこでは、専門家がいわゆる「専門バカ」になりがちなこと、また、それを補うのが普及員による専門知識・専門ノウハウの普及であること、初心者は普及員がいて初めて専門知識・専門ノウハウの恩恵にあずかれること、などを述べた。

さて、裁判制度が国民から疎遠になっていたことの遠因の一つが、裁判官と国民との距離が開いていることにあるのは間違いないところだ。それを改善するために、今回の「裁判員制度」が発想されたのであれば、一概にその発想を否定すべきではないだろう。

だが、今回の裁判員制度では、専門家である裁判官と初心者である有権者(から選抜された裁判員)とで構成されるチームが規定されたが、裁判官と裁判員とをつなぐべき普及員(裁判普及員とでも呼んでおく)はどこにも見当たらないのだ。さらにいえば、そのような裁判普及員を育成しないしくみ作りに腐心しているのが透けて見える。

裁判員に厳格な守秘義務を課し、関係した裁判に関して意見を公表することや裁判員としての経験を公表することを禁じていることにそれが表われている。これでは、裁判について国民の間に共通の理解を醸成することなど期待できないではないか?  

(3)「国民の義務」とすることについて

裁判員になる・ならないを国民は選べない。抽選によって選ばれたら、原則として、国民は裁判員となることを忌避できない。これは重大な点だ。

よく考えると、このような裁判員制度は憲法上の疑義も生じる。
憲法で国民の義務と規定しているのは、「納税の義務」と「(子どもに)教育を受けさせる義務」の二つに過ぎない。わが国には徴兵制がないので「兵役の義務」は憲法に規定されていない。

裁判員になることを国民の義務とするからには、憲法に「裁判員になる義務」を載せる必要があるのではないか? つまり、裁判員制度を制定するためには、事前作業として、憲法改正が必要なのではないか? 憲法改正論議を端折って、新たに、重大な国民の義務を一法律で規定してしまうのは「やり過ぎ」ではなかろうか? 今、「裁判員制度」への疑問・批判が各所で展開されているが、「憲法違反ではないか?」という論調があまり聞かれないのはなぜだろう?

もし、「裁判員になる義務」が法律で制定できることになると、同じように、例えば、「兵役の義務」でさえ、新たに法律を制定することで、実現してしまうことになりかねない。恐ろしいことだ。

「国民の義務」を新たに作り出すにあたっては、十分に慎重な国民的議論を経なければならない、というのが、「裁判員制度」を目の当たりにした一国民の感想だ。 

(4)誰も喜ばないのでは?

「裁判員制度」については、ほかにも疑問がある。箇条書きすると:

・裁判が拙速化する恐れがあること。事前の論点整理を十分に行う前提はついているものの、裁判員が参加する裁判は、原則として、3日で結審するという。これで、証拠の評価を十分に行うだけの時間的余裕が確保できるか?

・被告人のための制度ではない点。被告人は裁判員裁判の選択の権限もなければ、裁判員の選任に関与することもできない。

・裁判官の負担が増大する懸念があること。裁判官は、初心者の裁判員に対して、「法に則して」、とか、「証拠に照らして」とかの裁判の基本を教えることが要求される。裁判員は裁判については何も知らない、というのが原則だからだ。これは裁判官には大きな負担になるのではないか?

・裁判員の本来の仕事や生活への影響が避けられないこと。ボランティア活動であれば、仕事や生活へ影響を及ぼさない程度に計画すればできるが、裁判員に選任されたら、そのような自己裁量ができない可能性がある。

・裁判員が被るストレス障害が憂慮されること。裁判員の扱う裁判が、刑事裁判のうちでも、凶悪事件(殺人罪、傷害致死罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、など)であることが、裁判員に強いストレスを与えかねないことが容易に想像できる。

このように考えると、裁判員裁判に関係する当事者(裁判官、裁判員、被告人、検事、弁護士)の誰も、この裁判員制度を喜ばないのではないだろうか? これが素朴な疑問だ。 

(5)「裁判普及員」の提唱

裁判を国民に身近なものにするために「裁判員制度」が考え出されたが、裁判を国民に身近なものにする仕組みは不十分だということをこれまで述べてきた。
それは、「専門家」である裁判官と「初心者」である裁判員とだけで裁判を行うという仕組みに表われている。「専門家」と「初心者」は「普及員」を介して初めて十分にコミュニケートできる、という事実を見逃している。

また、折角、裁判制度を実体験した裁判員に厳しい「守秘義務」を課すということは、裁判制度の理解を広げることの妨げになる。5年経っても10年経っても、裁判制度を実体験した裁判員は国民全体の中で孤立せざるをえない。これでは、裁判制度の普及など期待できない。

裁判を国民に身近なものにするという本来の目的を達するためには、もっと別のアプローチがあっていいのではないか。私の提唱するのは、「裁判普及員」を作ったらどうか、というものだ。

「裁判普及員」は「裁判員」とどこが違うか?

第一に、裁判普及員は「志願制」であること。
第二に、裁判普及員の任務は「裁判員裁判」に参加すること、と、国民に対する裁判制度の普及活動を行うこと、の2つであること。

このような任務を負う裁判普及員を育てるためには、しかるべき教科書の作成や資格制度の創設などが必要となる。そのために、裁判官の知恵を出してもらえばいいのではなかろうか。ひとたび、裁判普及員が育てば、裁判官の負荷の軽減にも寄与することは間違いない。

また、自治体や学校で裁判制度の普及・啓蒙のカリキュラムを作り、それに裁判普及員が講師役で貢献するようになれば、国民の間で、裁判制度の理解は格段に深まるのではないだろうか。

「裁判員制度」への疑問・6

(6)あなたは裁判員になりたい?

ある寄り合いで「裁判員制度」の感想を聞いてみた。
できることなら「裁判員」を忌避したい、という人が最も多く、絶対に「裁判員」になりたくない、という人と、ぜひ「裁判員」を経験してみたい、という人とが、ほぼ同数いた。

非常に興味深い結果だ。
できることなら「裁判員」を忌避したい、という人が最も多いのは予測できるが、ぜひ「裁判員」を経験してみたい、という人がいることが興味深い。つまり、「裁判員」を「志願制」としても、希望者が集まる可能性が高い、ということがここから窺える。当然のことながら、志願して裁判員になる人の方が、抽選で選ばれて義務として「裁判員」を勤める人より、士気は高く、裁判の進行にも好影響を与えるだろう。

私自身は、絶対に「裁判員」になりたくない組だ。それは、この制度が、裁判に関係する誰もが喜ばない制度のように思えるからだ。

もう少し制度を洗練させて、「裁判普及員」ができたらどうか? 
私自身は、裁判員の資質をかなり備えていると思っているが、やはり、「裁判普及員」に志願することはないだろうと思う。志願してまで、他人の不幸に関わりたくないからだ。 (2008/11-2009/1)


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