静聴雨読

歴史文化を読み解く

歴史文化論の試み

2010-09-25 07:17:19 | 歴史文化論の試み
ブログのタイトルが「歴史文化を読み解く -民族・宗教・エコロジー・芸術-」で、自己紹介の欄に「とくに、中世以降の『文明の衝突』と十九世紀以降の『文明への懐疑』に興味があります。」と謳っているわりには、その香りが乏しいのではないか、というお叱りが聞こえてきます。ここで、関心のありかを説明したいと思います。

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まず、「歴史文化」ですが、このことばは一般に「文明」と称されるものとほぼ同じものを指しています。「文明」ということばを使わないのは、このことばが新興宗教の雰囲気を帯びているためです。

古代から連綿と続く歴史文化。その古い部分は「世界遺産」として世界的に認知されています。そのグローバルな広がりは驚くほどで、地球上のあらゆる地域で、歴史文化が興り、その多くが廃れています。古代の歴史文化は自然と闘い敗れて廃れていったものが多いのはやむを得ないところです。砂漠や山上や水辺に世界遺産が分布していることが古代の歴史文化の特徴を表わしています。しかし、私の関心はあまりここにはありません。

中世に入り、民族の移動が繰り広げられるようになりました。その最も大規模な例はシルクロードでの東西文明の交流でした。そこでは、民族間の交流とともに対立も起こりました。また、民族間に加えて宗教間の交流・対立が台頭してきます。その最大の例が、イスラム社会とキリスト教社会との交流・対立でした。地中海をベースにしたイスラム社会とキリスト教社会との交流・対立は「文明の衝突」として広く知られています。

スペインのアンダルシアとポルトガルで見た中世の遺構(城砦や教会)は「文明の衝突」の跡を如実に示していました。また、スペインのパラドールやポルトガルのポーサーダなどの宿泊施設は、中世の遺構を利用した趣のあるものです。
イスラム社会とキリスト教社会との交流・対立が現代にも微妙な影を落としていることは、アフガニスタンやイラク・イランをめぐるアメリカ合衆国などの外交政策に照らすと明らかです。関心を寄せざるを得ない所以です。 

16世紀はキリスト教社会の中における宗派間の対立(宗教戦争)で彩られています。その細かいことはよくわからないので、あまり関心がありません。

17世紀の産業革命以降、大量生産に伴う格差社会の発生がイデオロギーの対立を生み出していきます。さらに19世紀に顕著になった大量消費の風潮は歴史文化に対する深刻な懐疑を生み出していきます。

イギリスの思想家ウィリアム・モリス William Morris は、このような大量生産・大量消費への反発を思想化しました。彼は、社会主義の教導者として名を成しただけでなく、手作りの工芸運動 Arts and Crafts や印刷出版運動 Kelmscott Press により、大量生産・大量消費ではない「もう一つの道」を実践して見せました。

モリスの「もう一つの道」はユートピア探しとしても表現されました。トーマス・モアの『ユートピア』以来、現世に欠けた理想の社会をユートピアとして構想する動きが陸続として興りますが、モリスは『ユートピアだより News from Nowhere 』という名の書物で彼の理想郷を描きました。モリスのユートピアは、ラファエル前派に似て、中世への里帰りの感がないこともありません。
モリスの書物のタイトルからわかるように、ユートピアとは「どこにもない理想郷」です。逆にいえば、理想の社会を手に入れてしまうと、その社会はユートピアではありません。そういう本質的矛盾を
「ユートピア」は秘めています。

19世紀以降、思想家以外にも、ユートピアを求める集団が数多くありました。とくに、芸術家や宗教集団がユートピアを目指しました。一般に「コロニー」と呼ばれる根拠地に拠った人たちで、すでに私のブログに登場したヴォルプスヴェーデに拠った芸術家集団は一つの典型です。彼らは大量生産・大量消費に順応できない純粋な人たちでした。わが国では、武者小路実篤の提唱した「美しい村」が一つの「コロニー」といえるでしょう。

宗教集団でいえば、これは20世紀になりますが、ガイアナの人民寺院のようなカルト集団の中に極端な形のユートピア願望が見られます。わが国にあてはめれば、山梨県上九一色村にこもったカルト集団でしょうか。 

19世紀以降の「文明への懐疑」は自然との付き合い方の反省をももたらしました。アメリカのヘンリー・D・ソロー Henry D. Thoreau はウォールデン湖畔の小屋で一人暮らしをしながら、人間と自然、自然の摂理、自然と経済、などに関する思索を『ウォールデン-森の生活 Walden ; or, Life in the Woods』にまとめて発表しました。
ソローはアメリカにおける自然保護思想の始祖といわれますが、ソロー以降も、ジョン・ミューア、セオドア・ルーズベルト(大統領)、レイチェル・カーソンなどなど、自然保護の伝統はアメリカに息づいています。しかし、その自然保護思想と19世紀の西部開拓史とはどう整合するのでしょうか? アメリカについての疑問の一つです。

19世紀から20世紀にかけての歴史文化を俯瞰する上で、エコロジー思想とともに重要なのがジェンダーの思想です。何しろ、20世紀も終わろうとするときになって、「男女共同参画」を施策として打ち出す国があるほどですから。
ジェンダー思想の源流は18世紀イギリスのメアリー・ウルストンクラフト Mary Wollstonecraft の女性解放思想に求められるかもしれません。以来、女性の従属状態の改善と、男女の性差に基づく不平等の解消に、19世紀から20世紀までの200年を要したというのが実情です。シモーヌ・ド・ボーヴォワールのいう『第二の性』はこの問題の根本を衝くことばです。

これまでの文明が産業の発展を推進力にした工業文明であったのに対して、現代を情報のネットワーク化を基盤にした情報文明だと捉える見方があります(公文俊平『情報文明論』など)。確かに一理ある現代歴史文化の捉え方ですが、議論が拡散してしまいそうなので、ここまでは踏み込まないつもりです。

問題は「その先」に何を見通すか、にあります。
例えば、情報のネットワーク化の先には、均質化した人間群が生まれるのか、また、それが幸せなことなのか、という疑問が生じますし、情報のネットワーク化の暁には、国家とか国境とかにどういう意味が残るのか、という難問が立ちふさがります。 

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というわけで、人類の歴史文化を縦に読み解く上で、「民族・宗教・エコロジー・芸術」をキーワードにしていきたい、というのがとりあえずの私の「関心のありか」です。風呂敷が大きすぎることは承知しています。また、この風呂敷でも包みきれないテーマが多々出現しそうなことも予感していますが、まずはこれで出発してみようと思います。 (2006/7)


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