銅銭と云いながらも実際は銅のみでなく、いろんな原料で出来ている様です。
今一度銭貨の原料に関し、確認してみます。
この皇朝十二銭、各銭貨で原料の違いがあります。
ここでは、初期の和同開珎主体に述べますが・・・
銭貨の化学分析に関し、以下の2種類が主要な方法らしい。
・金属組成分析
・鉛同位体比分析
ということで、前回この鉛同位体比分析での解析を示しました。
銭貨に関し、どれも概ね同様と思っていましたが、時期によって鋳造にいろんな努力?変化があったらしい。
銭貨の主要な成分は、銅、スズ、鉛の3元素。
初期の4銭貨は、スズが数%以上含まれるものが多い。
5番目の富寿神宝以降はスズが1%以下となる。
時代が下がるほど銭貨に鉛含有量が増え、初期の3種類では鉛が数%含まれている。
副成分として、鉄、ヒ素、アンチモン、イオウが含まれる。
和同開珎の一部には鉛、スズよりアンチモンの多い銭貨がある。
アンチモンの量比は銭貨により差があり、問題、課題がいろいろ指摘されている。
なお、銅での原料供給地を調査するのは、難しい様です。そのため鉛の同位体が前回述べた様に俎上に上がったわけですが・・・
ただ、和同開珎も1ヶ所で鋳造されてはいないので、実際いろいろな解析大変とは思いますが・・・
資料によれば、鋳造場所は5ヶ所、近江、山城、河内、武蔵、平城京と・・・。
鋳造所で確認されている唯一の場所がこの下関市の長門鋳銭司の様です。
今一度長門鋳銭司、和同開珎の時代的な流れを追ってみましょう。
・長門鋳銭司(下関市長府)
730年(天平2年) 開設?
825年(天長2年) 閉所、周防鋳銭司(防府市鋳銭司)に移設
・皇朝十二銭
・708年(和同元年) 和同開珎
・760年(天平宝字4年) 萬年通宝
・765年(天平神護元年) 神功開宝
・796年(延暦15年) 隆平永宝
・818年(弘仁9年) 富寿神宝
・835年(承和2年) 承和昌宝
以下略
長門鋳銭司が稼働していた時代(730~825年)の製造貨幣は、和同開珎含め5種類の貨幣となる。
鋳銭司が長門(下関市)から周防(防府市)に移設、周防での鋳貨は「富寿神宝」からの様です。
となれば、長門鋳銭司での製造貨幣は和同開珎以外にもある可能性も・・・。
ただ、ここで見つかっている貨幣は和同開珎のみ?だが、これについてもいろいろ問題ある様です。
この辺りの史料、何かないかとあれこれ検索!
黒川古文化研究所HPに、こんな記事や写真が。
和同開珎銭笵12点(伝長門国鋳銭司出土)
和同開珎を鋳造した銭笵(鋳型)のかけらで、「和同開珎」の文字をとどめる銭面側の鋳型5個体分、背面側4個体分が含まれます。
そのうち7点は、「覚苑禅寺 和同開珎鋳型」と書いた箱に納められています。
蓋裏には大正元年(1912)十一月に長門の法輪山(覚苑寺:山口県下関市長府町)の境内で発見されたと記され、
方印から住職であった進藤瑞堂による記録である。
平城京でも和同開珎の鋳型や精良な「母銭」が出土しており、各地の鋳銭司では中央で複製された種銭の供給を受けて鋳型をつくり、
和同開珎の量産を行った可能性が指摘されています。
しかし、平城京出土の鋳型と当研究所の鋳型はどちらも母銭と同じく銭径(銭部分の直径)約2.6㎝で、
くりかえし鋳型を起こす工程で生じる収縮が認められません。
生産や流通についての謎は、まだまだ残されています。
真贋の手段は持ってませんが、まだまだ奥が深いってことだけは分かります。
ってところで、さらに調べたお寺や遺跡。
メインは下関市史に。
他に無いかと当たっていると、市の考古学博物館の発行資料(2012)にモロあります。
研究紀要 第16号 長門鉱山跡と長門鋳銭司【講演録】 池田善文
注文すると丁寧な回答!
そこでさらに図々しくこの寺他の資料を問い合わせると、
ここの館長さんが近年の長門鋳銭司発掘の資料(2021年発行)を作成しているとの情報。
学芸員さんが、注文資料以外のその種の資料も館長さんから預かり、同封してくれるとのこと。
こんな題目
長門鋳銭所跡の調査 ー近年の発掘調査成果からー 濱崎真二
まだまだ読み終えていないため、自分なりの新たな資料があるかは?ですが、いろいろ勉強になります。