フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月18日(土) 雨

2020-01-19 19:29:03 | Weblog

10時、起床。

雨が降っている。朝食はとらず、11時に家を出て大学へ。

12時に卒業生のミサさん(論系ゼミ3期生)が研究室にやってくる。今日は長い話になると彼女からの年賀状で予告されていた。

まずは11月の京都ひとり旅の話をスマホの写真を見せてもらいながら。

実は彼女、ひとり旅は人生初だったそうだ。候補地はあれこれ考えたそうだが、観光スポットのたくさんある京都にしたそうだ。ひとり旅の場合、時間をもてあましてしまうのではないかと初心者は考えてしまいがちで、その点、京都であれば足を向ける先に困ることはない。

もっとも観光スポットというものは、ひとり旅の場合、仮の目的地、移動の道標のようなものであって、非日常的な時空をひとりで移動する(ときに立ち止まりながら)という体験そのものがひとり旅の醍醐味である。だから観光スポットの多さというのはそれほど重要な要素ではない。そういうことはひとり旅の経験を重ねる中でわかってくるだろう。

松本なんかいいですよ(彼女も候補地のひとつに考えたようだが)。観光スポットは松本城くらいしかないから(笑)。

研究室で1時間ばかり話をしてから食事に出る。二人とも朝食抜きで腹ペコだった。「たかはし」で私は豚肉生姜焼き定食、彼女は肉豆腐定食をガッツリ食べるつもりだったが、生憎、臨時休業の貼紙が出ていた。

それではということで「タビビトの木」へ行く。カフェご飯なのでガッツリというわけにはいかないが、その分は後のスイーツで補おう。

室内に展示されている写真が新しくなった。

早大生の長岡健太郎の作品展が今日から始まったのだ。

食事は二人ともベジタブルカレープレートを注文。

茄子とオクラの豆カレーときのこのホワイトカレーのダブルだ。

上に載っているパパド(豆粉でつくったクラッカーのようなもの)は砕いてカレーに混ぜる。

食後のドリンクはカフェオレ。

研究室で聞いた「京都ひとり旅」の話と同じく、「タビビトの木」で聞いた去年の夏から秋にかけての話も地域移動の話だった。西小山→大倉山→秩父→西小山。旅ではなく住居移動だ。県境を越える地域移動を日本人は平均すると生涯に4度経験する。たとえば私は、結婚のとき(29歳)蒲田から綱島に移動し、長女が生まれたとき(31歳)綱島から蒲田に移動し、自宅(中古マンション)を購入して蒲田から市川に移動し(33歳)、そして実家に三階建て住宅を新築して蒲田に戻ってきた(46歳)。ちょうど4回だ。ミサさんはたった数か月の間に3回も県境を越える地域移動を経験したわけで、激動の数か月といえるだろう。一体、何があったのか。その話を聞いた。

ところが話はこれで終わらなかった。夏から秋にかけての話のあとに、京都ひとり旅を間に挟んで、秋から冬にかけての話が続くそうなのだ。そ、そうなのか。では、「よしかわ」でおはぎを買って、続きはまた研究室で聞くとしよう。

私はこしあんのおはぎ、彼女はきなこのおはぎ。

いただきます。

夏から秋への話も劇的であったが、秋から冬への話も劇的であった。人生には思いもよらない展開をするときがあるものだとはいえ、それが連続して起こるとなると、それはたんなる偶然では説明できないだろう。表層的な偶然の連続の背後にそれを出現させる構造(別の言葉でいえば蓋然性)が存在するものである。私は話の途中でその構造の存在に気づいた。そして彼女の話の展開が予想できた。

研究室のドアをノックする音がした。「どうぞ」と私は言った。「どなたですか?」とは聞かなかった。聞かずとも予想できたからである。彼女とはゼミ同期のキミヒロ君である。「先生、すごいですね!」と彼女が驚いた。

私を何だと思っているんだ。ライフストーリー研究の専門家だぞ。

彼女の話はあくまでも彼女の視点からの話だったから、私は彼に彼の視点からの話を聞きたくて、彼女が食器を洗いに廊下に出いている時に、1つ2つ質問したいことがあった。しかし、彼は彼女が食器を洗うのを手伝いに行ったので、その時間はなかった。やさしい男だ。

彼の視点からの話を聞くのは(今日は)あきらめて、3人で「カフェ・ゴトー」へ行くことにした。

私はココア、ミサさんはチーズケーキとブレンドコーヒー、キミヒロ君はブレンドコーヒーを注文した。

私はランチとおはぎと彼女の長い話でお腹いっぱいだった。キミヒロ君は私の前では緊張してケーキは喉を通らないのであろう。彼女だけが食欲旺盛にチーズケーキを注文した。自分だけ食べて申し訳ないと思ったのか、彼に少しわけてあげた。それから「先生もどうですか?」と言った。いらん。おこぼれになんぞあずかれるか(笑)。

キミヒロ君は3年生の冬のゼミ合宿のときに、「俺たちもっと仲良くならないといけないと思うんだ」ということを、夜、女子の部屋に行って演説をしたそうだ。3期生の仲がよくなったのはそれがきっかけだった(卒業してから7年経つが、これほど頻繁に集まっている代はほかにないだろう)。

ミサさんは4年生の春学期のゼミ論相談のときに、「私たちもっと先生と話がしたいんです」と言った。当時の私は学部の教務主任の仕事をしていて、授業時間外でゼミ生と話をする時間があまりとれなかった。彼女にそう言われて、ゼミ論相談ではゼミ論以外の雑談も心掛けるようになった。

二つのエピソードに共通するのは、コミュニケーションの意欲の「自分からの」表明である。「待ち」の姿勢が目立つ若い世代にはめずらしいことである。

これから池袋で3期生の集まりがあるという二人とは地下鉄の駅で別れた。「またお会いしましょう」と彼女が言った。確認しなかったが、それは「3人で」という意味かしら。

6時半、帰宅。6時に整骨院を予約していたのだが、遅くなってしまったので、キャンセルと改めての予約の電話を入れる。

夕食は牛肉と菜の花とエノキの煮物(あんかけ)、明太子とシラス入りの玉子焼き、味噌汁、ご飯。

今日はミサさんとキミヒロ君の他にもう一人、「カフェゴト―」で遭った人がいる。愛知大学の飯島幸子さんだ。彼女は私が早稲田大学に赴任して3年目の卒業生だ。私のゼミを卒業し、東大の大学院へ進学し、博士論文や就職には時間がかかったが、いま愛知大学の国際コミュニケ―学部の助教である。今日は学生時代のサークル(混声合唱団)の同窓会が夕方からあるので上京し、それまでの時間を「カフェゴト―」で過ごしていたのだ。近況について話を聞いた。いろいろ落ち着かれたようでよかったですね。

もう1つ書いておきたいことがある。高校時代の友人Kから連絡があり、今日クラスの同窓会があったのだが、そのときYの消息がわかったというのである。Yは二浪して信州大学の医学部に進んだ。私が彼に会いに松本へ行ったとき、あちこち案内してくれ、知り合いのお宅に泊めてもらったりした。そのお宅で夕食をご馳走になりながら、Yは私のことを、「俺は人間の病気を治すために勉強していますが、彼は社会の病理を研究しているんです」と紹介した。Yと会ったのはその日が最後だった。噂では、私が連れて行ってもらったスナックのママと駆け落ちをした(彼女の夫はその筋の人間だった)ということだった。はたして彼はちゃんと医学部を卒業して医者になったのか、ずっと気になっていた。Kによると、Yはちゃんと医学部を卒業し、東京の大学病院に外科医として勤め、その後いくつかの病院勤務を経て、つい最近まである地方都市の病院で院長をしていたそうだ。ネットで調べたら彼のインタビュー記事が載っていて、なかなかの人物のようだった。45年間、気になっていたことがわかってよかった。

2時、就寝。