フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月2日(水) 晴れ

2016-03-03 13:41:42 | Weblog

7時半、起床。

トースト(葡萄パン)、ウィンナー、サラダ、紅茶の朝食。

午後、散歩に出る。

品川の原美術館へ。

品川駅(高輪口)そばにある神社。仰ぎ見ると社の上に艶やかなる女性が・・・。

神様も苦笑されていることだろう。

美術館に行く前に「つばめグリル」で昼食をとることにする。美術館の中にもカフェがあり、軽食なら食べられるが、今日はしっかり食べたい気分だった。

水がボトルで出てくるところが私のような水呑みにはありがたい。

看板メニューのつばめグリル風ハンブルグステーキを注文。

名物のトマトのファルシ―(詰め物)サラダが付いてくる。

この店では「ハンバーグ」は「ハンブルグ」と発音する。三種あるハンブルグのうち「つばめグリル風ハンブルグ」だけがホイルに包まれて出てくる。ビーフシチューとコラボになっているからだ。

うん、期待どおり、肉々しいハンバーグで、旨い。

デザートは焼き林檎(アイスクリーム添え)と紅茶。

使わなかったが角砂糖の包み紙がかわいらしいので、いくつかポケットに入れて持って帰ろうかと思ったが、やめときました。

品川駅から原美術館までは徒歩15分。腹ごなしの散歩にはちょうどいい距離だ。

 

到着。

現在のメインの展示は、佐藤雅晴「東京尾行」。

私邸を改築した美術館。門から玄関までのアプローチが「原美術館にようこそ」という感じでいい。

駅からの道、私の前を歩いていた女性が入館前に煙草を吸っていた。たぶん観終わって出てきたときも同じようにするのだろう。

チケット売り場の横の小さな展示室で佐藤雅晴「CALLING」にいきなり魅了された。

いろいろな場所(家庭の居間、会社のオフィス、学校の職員室、車の中、地下鉄の、街角、農道・・・)の映像が次々にスクリーンに映される。そこにはついさきほどまで人のいた気配が感じられる(たとえばコーヒーカップからは湯気があがっている)。電話(ケータイ、固定電話、公衆電話・・・)が鳴る。でも、その電話に出る者はいない。やがて電話は鳴り止む。場所を替えながら、それが繰り返される。人々は一体どこに行ってしまったのだろう。その電話を掛けて来ているのは誰なのだろう。人間にしては諦めが早いのではないだろうか。人間ならもっと執拗に鳴らしつづけるのものではないだろうか。それとも彼(彼女)はもうすっかり諦めてしまって(みんないなくなってしまったことがわかっていて)、惰性的に電話を掛け続けているだけなのかもしれない。もしかしたらその電話を掛けているのは人間ではなく「システム」なのかもしれない。どこかに残っている人間がいないかどうかを巡回しているのかもしれない。残っている(かもしれない)人間たちは、「あの電話には出ちゃだめだ」と息をひそめているのかもしれない。・・・そんな想像、いや、妄想を喚起される作品だ。

それにしても電話がケータイになって、世界のありとあらゆる場所が、「電話のある場所」になったのだということに気づかされる。

1階の大きな展示室の佐藤雅春「東京尾行」は、東京のあちこちの映像が複数のスクリーンに定点観測のように映されている。一部の人物や事物はトレース(この言葉には「尾行」という意味もある)されてアニメのようになっている。実際のビデオ映像であると同時に、作られた作品であるという不思議な媒介を通して、私たちは現在進行形の「生きている東京」、「変わりつつある東京」を見つめることになる。

「尾行」といえば、私は小学生の頃、道を歩く見知らぬ人の跡をつけるという遊びに興じていたことがあった。ある日、「見知らぬ人」という原則を曲げて、小学校の担任の女の先生の跡をつけていったことがあった。この話はなかなか面白い展開をするのだが、長くなるので、いまはやめておこう(笑)。

2階の展示室では、ソフィ・カルという女性の写真家の「限局性激痛」という作品(第二部)が展示されていた。これは実に興味深いものだった。彼女は1984年に奨学金を得て日本に三か月間滞在したのだが、その間に、恋人に捨てられるという経験をした。その苦痛を緩和するために彼女は繰り返しその物語を語るのだが、それと同時に、たくさんの人にインタビューをしてその人の人生で一番つらかった経験を語ってもらうというプロジェクトに取り組んだ。

「〇〇日前、愛している男に捨てられた」。彼女の語りは常にこう始まる。語られる内容は多少の変奏はあるが、同工異曲だ。「〇〇日前」はカウントアップされていく。最後の語りは「90日前」だった。

「90日前、愛している男に捨てられた。1985年1月25日の午前2時だった。私はニューデリーのインペリアル・ホテル、261号室にいて、彼はパリにいた。彼は電話で別れを告げた。他の女のことが好きなのだと告げるのに、文章は四つ、言い終えるのに三分とかからなかった。惨めな、ありふれた物語である。くどくどと繰り返すには値しない物語。」

そのとき、インタビューした相手の語った物語は次のようなものだった。

「1954年11月8日午後6時にそれは起こった。私は奇形児を産んだ。鼻がつぶれていて、鼻筋が曲がり、口の代わりに穴があいていた。怪物だった。何か異常なことが起こったのは分かっていた。両足を広げられると、彼らは皆走りよってきて、私を取り囲んだ。夫が最初に口を開いた。私に見せてはならないと言ったのだ。私は、自分がそれを拒んで、いやだという仕草をしたことを覚えている。赤ん坊を私に差し出したのは、産婆のロラン夫人だった。婦人は言った。「心配しなくても、ちゃんとなおりますよ。」そして彼女の隣にいた太った黒人女が続けた。「男の子でよかったですね、口ひげを伸ばせばいいですもの。」夫は何も言わなかった。私の横でじっとしていた。その子の写真は一枚しか残っていない。写真があるのはオルレアンの眼科医のところである。」

ソフィ・カルが愛する男に捨てられる物語を語るのをこれで終りにしたのは、奇形児を産んだ女の語りが強烈だったからではない、と私は思う。それまでも強烈な痛みを伴った語りはたくさんあった。「90日」という期間は彼女が日本に滞在していた期間とちょうど同じだった。それで踏ん切りがついたということではないだろうか。この世で一番悲痛な物語が、「くどくど繰り返すに値しない」凡庸な物語となるまでにそれだけの時間が必要だったということである。

さまざまな人が語った不幸な物語の中で、私が一番印象に残ったのは、次の男の語りだ。(彼女のインタビューは「31日前」の時点で行われた)。

「もし僕が不幸を本当に経験したなら、誰にも分けてあげるつもりはない。昔はいくつもの話があったけれど、恥ずかしくて人には話せない。そこからストーリーを創り出すと、誇張することになってしまう。人によって不幸に対する才能があるのだ。僕には才能はない。それは無関心のシステム、皮肉の装置によるのだろうか。世界が現実のものとなるために、存在するというもっと鋭い感覚を得るため、僕はもっと不幸になりたい。しかし純粋な不幸に陥ったことは一度もない。いつかはもっと強く、もっと深く苦しみたいと思う。僕はまだ自分の物語に出会っていないのだ。」

ショップで、ソフィ・カルの「限局性激痛」のテキストを購入した。(「東京尾行」のカタログは3月中旬に出来上がるそうだ)

一緒に並んでいたソフィ・カルの「The Address Book」というテキストがとても興味深かったので、こちらも購入した。

彼女が街角で拾った住所録に書かれている人たちに持主がどういう人であるかをインタビューした記録である。(住所録には持主の名前が書かれていたので、現物は早々に持主の元へ戻ったが、彼女はコピーをとっておいたのだ)。インタビューは雑誌に連載され、住所録の持主から彼女は訴えられることになるのだが、こうして出版にたどり着いたのだから、何らかの和解が成立したのだろう。それにしてもソフィ・カルという人、突拍子もないことを考え、考えるだけでなく、実行に移す人である。

充実した展示を観て、満ち足りた気分で、館内にある「カフェダール」で一服する。ちょうど客は私だけだった。

チーズケーキとコーヒーを注文。

この淡雪のようなチーズケーキは今回の展示会に合わせて創作されたものである。

美術館を出たのは午後4時だった。 

大井町のアトレに寄って買物をして帰る。

夕食はフライの盛り合わせ。

海老フライ、ウィンナーフライ、そして玉ねぎフライ。

デザートは蒲田駅で買ってきた棒状のシュークリーム「ザクザク」。

レシートから今日一日を振り返る。購入した商品とその値段を読み上げると、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の練のように凍てついた気持ちが解けてくる・・・・ということはなくて、「ちょっと遣いすぎたか」という気分になる。

確定申告の書類の作成にようやく着手する気になる。