陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

693.梅津美治郎陸軍大将(33)東久邇宮盛厚王殿下一行が待ち構えていたので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は非常に意外に思った

2019年07月05日 | 梅津美治郎陸軍大将
 関東軍司令官・梅津美治郎中将は、これに対して同感であり、次の様に答えた。

 「ここの参謀も急に多くが更迭され、そのような者はもう内地にかえされている筈だが、よく訓戒し逸脱行為に出ないようにする」。

 昭和十四年十一月下旬、ノモンハン事件の後始末の目安がついたので、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、軍状上奏のため上京することになった。

 梅津美治郎中将は、第一軍司令官として北京在勤から直接関東軍司令官に親補されたため、第一軍司令官としての軍状上奏が行われていなかったためだった。

 関東軍司令官・梅津美治郎中将の上京には、松山秘書官と、関東軍参謀・菅井斌麿(すがい・としまろ)中佐(徳島・陸士三三・陸大四三・関東軍参謀・参謀本部教育課高級課員・参謀本部教育課長・陸軍省兵備局兵備課長・砲兵大佐・陸軍省高級副官・第一七方面軍参謀副長・少将)が随行することになった。

 当時、東久邇宮盛厚王(ひがしくにのみや・もりひろおう)殿下(東京・東久邇宮稔彦王第一王子・貴族院議員・陸士四九・砲兵少尉・陸軍砲工学校普通科・陸軍野砲兵学校附・大尉・少佐・陸大五八・第三六軍情報参謀・終戦・免貴族院議員・皇籍離脱・公職追放・東京大学経済学部・帝都高速度交通営団幹事・日本狆<ちん>クラブ会長・昭和四十四年二月死去・享年五十一歳・勲一等旭日大綬章)は、北満の重砲兵連隊付き少尉だった。

 だが、十二月一日に陸軍砲工学校入学のため、東京に帰られることになっていたので、殿下のお付武官から、関東軍司令官・梅津美治郎中将の上京の特別機に同乗方の申し入れがあった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、婉曲に断った。その理由は、関東軍司令官兼満州国駐在大使である者が、短期間にしろ、任地を離れる場合は、満州国側にも通告しなければならないのだ。

 だが、今回は黙って秘密裏に上京することにしたため、もし、宮殿下が同乗の場合は、秘密が露見する公算が濃厚であると思われた。

 ところが、翌早朝、新京飛行場に来てみると、東久邇宮盛厚王殿下一行が待ち構えていたので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は非常に意外に思った。

 後で、お付武官に聞くと、その前夜、殿下の一行は関東軍司令官・梅津美治郎中将の官舎に一泊し、夕食を共にした席上で、東久邇宮盛厚王殿下が直接、関東軍司令官・梅津美治郎中将に話をされ、同意を得られたとのことだった。

 新京飛行場を離陸した軍司令官専用機は、一路、朝鮮京城飛行場に向かった。通常のコースは奉天経由だったが、奉天に着陸すると、関東軍司令官・梅津美治郎中将の乗っていることが暴露するので、京城へ直行し給油の後、福岡へ飛ぶ計画だった。

 機内での弁当、飲物も携行し、朝鮮軍にも関東軍司令官・梅津美治郎中将が乗っていることなど一切秘密にしてあった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、二十万分の一の地図を開いて、時々窓下を見ながら、機の位置を確かめていた。

 朝鮮と満州の国境は鴨緑江の遙か上流で通過したことを確認し、あと何十分位で京城上空に達するものと予期し得て安心していた。

 大体予定の時間が過ぎたので、また地上を見た。ほぼ京城上空のはずであるのに、それらしくなかった。依然として山岳地帯である。

 おかしいと思ったので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦席へ行って「今どこを飛んでいるのか?」と尋ねたが、操縦士は「ちょっと待ってください」と言うのみで、どこの上空かを言わなかった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、やむなく、自席に戻って窓の外を見つめていたが、どことも見当がつかなかった。

 ニ十分も飛んだであろうか、機の左方に海が見える。そこで、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、また操縦席へ行って尋ねた。

 操縦士は、相変わらず「ちょっと、待ってください」と言う。しばらくすると、また左に海が見える。おかしい。

 京城着の予定時間はかなり過ぎ去っている。飛行機が迷っているに違いない。関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、再び操縦席に行った。