それにともない、関東軍司令部は総司令部に昇格された。したがって、梅津美治郎大将は、関東軍総司令官となり、対ソ戦に備えて戦力増強が図られた。
このような状況下において、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、日ソ開戦について、次の様に考えていた。
「対ソ開戦は、全国民の北方問題解決の総意に基づき、帝国軍主力を指向するのでなければ発動することはできない」。
これは、もはやソ連が夏にはソ連軍の態勢は欧州で不敗となり、極東ソ連軍の防衛もいよいよ強化されてきたので、もはや熟柿主義的にソ連軍の崩壊を期待する甘い希望的判断は認めることが出来なくなった。従って、日ソ開戦となれば、国力の全勢力を傾注して行わなければ勝算がないことを自認しての発言であったと思われる。
昭和十九年7月9日、サイパン島が玉砕後、首相と陸軍大臣を兼任し、さらに参謀総長にも就任していた東条英機陸軍大将の内閣に不安を覚えた政界上層部は、政変的な動きを活発化させてきた。
彼らは、次の三条件を東條首相に提示した。
一、総長と大臣を切り離して、統帥を独立させること。二、海軍大臣を更迭させること。三、重臣を入閣させて、挙国一致内閣をつくること。
東條首相は、この三条件が重臣層の総意を反映していることを知り、まず最もやり易い陸軍部内の改革、即ち、自ら参謀総長を辞任して、後任者を選定することから始めた。
昭和十九年七月十七日、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、東京の陸軍省から、直接電話により、参謀総長就任の内命を受けた。
偶然、その場に、居合わせたのは、関東軍参謀副長・池田純久(いけだ・すみひさ)少将(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部卒・陸軍省資源局企画部第一課長・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍第五課長・関東軍参謀副長・中将・内閣総合計画局長官・終戦・歌舞伎座サービス会社社長・エチオピア顧問団長・第五回参議院議員通常選挙で落選・昭和四十三年四月死去・享年七十三歳)だった。
その場にいた、関東軍参謀副長・池田純久少将は、関東軍総司令官・梅津美治郎大将が電話を受けたので、席を外した。
後で、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、関東軍参謀副長・池田純久少将に、「自分はこの対米英戦争には最初から反対の意見であったから、この任務を受けたくない」と述べた。
さらに「もはや状況を好転させるべき参謀総長としてのなす述もないのだから、なんとかして、辞退することはできまいか」と相談したという。
だが、すでに内奏もされており、七月十八日午後、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は新京から飛行機で上京した。
七月十八日午後十時、新参謀総長・梅津美治郎大将の親補式が行われた。同時に次の二人の親補式も執り行われた。
新教育総監・杉山元(すぎやま・はじめ)元帥(福岡・陸士一二・陸大二二・国連空軍代表随員・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍航空本部補給部長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・自決・享年六十八歳)。
新関東軍司令官・山田乙三(やまだ・おとぞう)大将(長野・陸士一四・陸大二四・騎兵第二六連隊長・騎兵大佐・朝鮮軍参謀・参謀本部通信課長・少将・陸軍騎兵学校教育部長・第四旅団長・陸軍通信学校長・参謀本部第三部長・参謀本部総務部長・中将・参謀本部総務部長兼第三部長・陸軍士官学校長・第一二師団長・第三軍司令官・中支那派遣軍司令官・教育総監・大将・教育総監兼防衛司令官・関東軍司令官兼駐満州国特命全権大使・終戦・捕虜としてシベリアに十年間抑留・昭和四十年七月死去・享年八十三歳)。
昭和十九年七月十九日、東條内閣は戦局最も困難な時期に、組閣以来二年九か月余にして遂に倒れた。
やがて陸軍大臣詮衡の三長官会議が開かれ、教育総監・杉山元元帥、参謀総長・梅津美治郎大将、陸軍大臣・東條英機大将が出席した。
このような状況下において、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、日ソ開戦について、次の様に考えていた。
「対ソ開戦は、全国民の北方問題解決の総意に基づき、帝国軍主力を指向するのでなければ発動することはできない」。
これは、もはやソ連が夏にはソ連軍の態勢は欧州で不敗となり、極東ソ連軍の防衛もいよいよ強化されてきたので、もはや熟柿主義的にソ連軍の崩壊を期待する甘い希望的判断は認めることが出来なくなった。従って、日ソ開戦となれば、国力の全勢力を傾注して行わなければ勝算がないことを自認しての発言であったと思われる。
昭和十九年7月9日、サイパン島が玉砕後、首相と陸軍大臣を兼任し、さらに参謀総長にも就任していた東条英機陸軍大将の内閣に不安を覚えた政界上層部は、政変的な動きを活発化させてきた。
彼らは、次の三条件を東條首相に提示した。
一、総長と大臣を切り離して、統帥を独立させること。二、海軍大臣を更迭させること。三、重臣を入閣させて、挙国一致内閣をつくること。
東條首相は、この三条件が重臣層の総意を反映していることを知り、まず最もやり易い陸軍部内の改革、即ち、自ら参謀総長を辞任して、後任者を選定することから始めた。
昭和十九年七月十七日、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、東京の陸軍省から、直接電話により、参謀総長就任の内命を受けた。
偶然、その場に、居合わせたのは、関東軍参謀副長・池田純久(いけだ・すみひさ)少将(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部卒・陸軍省資源局企画部第一課長・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍第五課長・関東軍参謀副長・中将・内閣総合計画局長官・終戦・歌舞伎座サービス会社社長・エチオピア顧問団長・第五回参議院議員通常選挙で落選・昭和四十三年四月死去・享年七十三歳)だった。
その場にいた、関東軍参謀副長・池田純久少将は、関東軍総司令官・梅津美治郎大将が電話を受けたので、席を外した。
後で、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、関東軍参謀副長・池田純久少将に、「自分はこの対米英戦争には最初から反対の意見であったから、この任務を受けたくない」と述べた。
さらに「もはや状況を好転させるべき参謀総長としてのなす述もないのだから、なんとかして、辞退することはできまいか」と相談したという。
だが、すでに内奏もされており、七月十八日午後、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は新京から飛行機で上京した。
七月十八日午後十時、新参謀総長・梅津美治郎大将の親補式が行われた。同時に次の二人の親補式も執り行われた。
新教育総監・杉山元(すぎやま・はじめ)元帥(福岡・陸士一二・陸大二二・国連空軍代表随員・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍航空本部補給部長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・自決・享年六十八歳)。
新関東軍司令官・山田乙三(やまだ・おとぞう)大将(長野・陸士一四・陸大二四・騎兵第二六連隊長・騎兵大佐・朝鮮軍参謀・参謀本部通信課長・少将・陸軍騎兵学校教育部長・第四旅団長・陸軍通信学校長・参謀本部第三部長・参謀本部総務部長・中将・参謀本部総務部長兼第三部長・陸軍士官学校長・第一二師団長・第三軍司令官・中支那派遣軍司令官・教育総監・大将・教育総監兼防衛司令官・関東軍司令官兼駐満州国特命全権大使・終戦・捕虜としてシベリアに十年間抑留・昭和四十年七月死去・享年八十三歳)。
昭和十九年七月十九日、東條内閣は戦局最も困難な時期に、組閣以来二年九か月余にして遂に倒れた。
やがて陸軍大臣詮衡の三長官会議が開かれ、教育総監・杉山元元帥、参謀総長・梅津美治郎大将、陸軍大臣・東條英機大将が出席した。