その時、関東軍司令官・梅津美治郎中将が、次の様に強く意見を述べた、
「どうも中央補給機関が満州にあるのは具合が悪い。関東軍司令官の隷下に入るように改編する必要がある」。
これに対して、最新参者であった関東軍参謀部作戦課兵站班長・今岡豊少佐は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に次の様に述べた。
「閣下、それは閣下が陸軍次官の時、強力な補給機関を満州に推進するに方り、参謀本部としては関東軍の隷下に入れる案であったが、梅津閣下がどうしても中央機関にしなければ出さないとのことで、このように決定したと思っておりますが」。
すると、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、次の様に答えた。
「たしかに次官の時は、陸軍大臣管轄のものにした方が強力なものとなって良いと思ったが、関東軍司令官の立場から見ると、満州に陸軍省の機関が進出すれば、他の各省が満州にいろんな機関を出すのを拒絶する訳には行かなくなる。そうなると駐満大使として、一元的に満州国を指導している態勢が崩れることになる」。
関東軍参謀部作戦課兵站班長・今岡豊少佐は、これを聞いて「ハイ、よく判りました」と答えたのだが、このような深い理由があるとは思わなかった。後に、ある部長から「君は思い切ったことを言ったものだなあ」と、冷やかされた。
昭和十五年八月一日、関東軍司令官・梅津美治郎中将は大将に進級した。
昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃により、太平洋戦争が開戦した。真珠湾攻撃や、マレー上陸作戦の成功で、国民は、湧き上がって歓喜していた。
だが、関東軍司令官・梅津美治郎大将は、この戦争の推移がどうなるか、長期的見通しについて深く憂慮していた。
当時の関東軍第一課長(作戦)は、田村義富(たむら・よしとみ)大佐(山梨・陸士三一・陸大三九恩賜・フランス駐在・軍務局軍事課編制班長・北支那方面軍作戦主任・歩兵大佐・北支那方面軍作戦課長・少将・関東軍作戦課長・少将・関東軍補給監部参謀長兼関東軍参謀副長・大本営参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀副長・第三一軍参謀長・昭和十九年八月十一日グアム島で自決・享年四十七歳・中将)だった。
関東軍司令官・梅津美治郎大将は、お気に入りの第一課長・田村義富大佐に「この戦争はどうなるだろうか」と質問してみた。
第一課長・田村義富大佐は即座に「この戦争は、勝目がないように思います」と答えた。
関東軍司令官・梅津美治郎大将は、「自分も、そのように思う」と言って、第一課長・田村義富大佐の意見に同意したと言われている。
昭和十七年六月五日~七日に行われたミッドウェー海戦は日本海軍の敗北に終わった。
この報告を受けた、関東軍司令官・梅津美治郎大将は、「この戦争はもう駄目だ。日本帝国は敗戦の道をたどらねばなるまい」と嘆声を洩らした。
昭和十七年七月四日、関東軍の指揮組織を改編強化するとともに、これに伴う人事が次のように発令された。
新設された第一方面軍の軍司令官には山下奉文(やました・ともゆき)中将(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍大学校教官・オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍事課長・少将・陸軍省軍事調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・航空総監兼航空本部長・ドイツ派遣航空視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・マニラ軍事裁判で死刑判決・昭和二十一年二月刑死・享年六十歳・従二位・功三級・勲一等旭日大綬章・五等オーストリア共和国功績勲章等)が親補された。
第二方面軍の軍司令官には阿南惟幾(あなみ・これちか)中将(大分・陸士一八・二四番・陸大三〇・一八番・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監・陸軍大臣・昭和二十年八月十五日自決・享年五十八歳・勲一等旭日大綬章・功三級)が親補された。
また、吉林省の延吉(えんきつ)に第二軍が、吉林省の四平街(四平市=しへいし)に機甲軍がそれぞれ新設された。
「どうも中央補給機関が満州にあるのは具合が悪い。関東軍司令官の隷下に入るように改編する必要がある」。
これに対して、最新参者であった関東軍参謀部作戦課兵站班長・今岡豊少佐は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に次の様に述べた。
「閣下、それは閣下が陸軍次官の時、強力な補給機関を満州に推進するに方り、参謀本部としては関東軍の隷下に入れる案であったが、梅津閣下がどうしても中央機関にしなければ出さないとのことで、このように決定したと思っておりますが」。
すると、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、次の様に答えた。
「たしかに次官の時は、陸軍大臣管轄のものにした方が強力なものとなって良いと思ったが、関東軍司令官の立場から見ると、満州に陸軍省の機関が進出すれば、他の各省が満州にいろんな機関を出すのを拒絶する訳には行かなくなる。そうなると駐満大使として、一元的に満州国を指導している態勢が崩れることになる」。
関東軍参謀部作戦課兵站班長・今岡豊少佐は、これを聞いて「ハイ、よく判りました」と答えたのだが、このような深い理由があるとは思わなかった。後に、ある部長から「君は思い切ったことを言ったものだなあ」と、冷やかされた。
昭和十五年八月一日、関東軍司令官・梅津美治郎中将は大将に進級した。
昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃により、太平洋戦争が開戦した。真珠湾攻撃や、マレー上陸作戦の成功で、国民は、湧き上がって歓喜していた。
だが、関東軍司令官・梅津美治郎大将は、この戦争の推移がどうなるか、長期的見通しについて深く憂慮していた。
当時の関東軍第一課長(作戦)は、田村義富(たむら・よしとみ)大佐(山梨・陸士三一・陸大三九恩賜・フランス駐在・軍務局軍事課編制班長・北支那方面軍作戦主任・歩兵大佐・北支那方面軍作戦課長・少将・関東軍作戦課長・少将・関東軍補給監部参謀長兼関東軍参謀副長・大本営参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀副長・第三一軍参謀長・昭和十九年八月十一日グアム島で自決・享年四十七歳・中将)だった。
関東軍司令官・梅津美治郎大将は、お気に入りの第一課長・田村義富大佐に「この戦争はどうなるだろうか」と質問してみた。
第一課長・田村義富大佐は即座に「この戦争は、勝目がないように思います」と答えた。
関東軍司令官・梅津美治郎大将は、「自分も、そのように思う」と言って、第一課長・田村義富大佐の意見に同意したと言われている。
昭和十七年六月五日~七日に行われたミッドウェー海戦は日本海軍の敗北に終わった。
この報告を受けた、関東軍司令官・梅津美治郎大将は、「この戦争はもう駄目だ。日本帝国は敗戦の道をたどらねばなるまい」と嘆声を洩らした。
昭和十七年七月四日、関東軍の指揮組織を改編強化するとともに、これに伴う人事が次のように発令された。
新設された第一方面軍の軍司令官には山下奉文(やました・ともゆき)中将(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍大学校教官・オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍事課長・少将・陸軍省軍事調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・航空総監兼航空本部長・ドイツ派遣航空視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・マニラ軍事裁判で死刑判決・昭和二十一年二月刑死・享年六十歳・従二位・功三級・勲一等旭日大綬章・五等オーストリア共和国功績勲章等)が親補された。
第二方面軍の軍司令官には阿南惟幾(あなみ・これちか)中将(大分・陸士一八・二四番・陸大三〇・一八番・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監・陸軍大臣・昭和二十年八月十五日自決・享年五十八歳・勲一等旭日大綬章・功三級)が親補された。
また、吉林省の延吉(えんきつ)に第二軍が、吉林省の四平街(四平市=しへいし)に機甲軍がそれぞれ新設された。