明治二十八年八月二十六日鉄山が十一歳の時、父・志解理が死去した。父の臨終のとき、父の枕辺に行儀よく座っていた鉄山に、父・志解理は、苦しい息の下から、「鉄山!お前は必ず立派な軍人になれよ!……そしてお国のために……父も十万億土のあの世で喜ぶように……」。
鉄山は「ハア、必ずともにお言葉を」と、父が臨終に残した遺言と、鉄山が誓った言葉とが、永田鉄山を軍人の道に進ませ、その栄光の階段を昇らせて行った。
だが、永田鉄山は栄光の階段を上る途中、相沢中佐による突然の凶行で、落命した。このような突発的な事故の兆候は、若い頃より多々見られた。
明治三十六年、永田鉄山は中央幼年学校の生徒であったが、当時なかなか「負けじ魂」の持ち主だった。夏のことだった。寝具を整頓する際、蚊帳をはずそうとした時、どうしたはずみか吊手の金具がはずれて、彼の眉間を強く打ち、裂傷を負った。
休養室で治療を受けねばならぬほどだった。だが、この時、永田生徒は痛いとも何とも一言の弱音を吐かず、ジッと歯を食いしばったまま我慢をしていた。
また、幼年学校在校中、郷里へ帰郷する途中、犀川にさしかかったが、あいにく渡し船がない。そこで鉄山はいきなり川に飛び込んで泳ぎだした。
だが、流れが急なので、流されて溺れそうになった。その時、遠方でこれを見た百姓が飛び込んで助けてくれて、ようやく一命を取り止めたこともあった。
陸軍大学校の学生時代、風呂屋に行って入浴中、衣類全部を何者かに着て行かれてしまった。風呂屋の使いが着物を家に取りに行ったが、ほかに着替えが見つからなかった。
その時、ちょうど同期生の川上の依頼で、仕立屋から一重重ねの和服が出来てきていたので、それを借りて間に合わせた。
幼年学校時代、負けぬ気の永田生徒は、趣味として囲碁を好み、日曜・休日等には、盛んに同志と戦ったが、腕前はそれほどでもなかった。
後日のことだが、陸軍大学校の学生時代、勝負に夢中になり、学科時間まで及んだため、陸軍生活中ただの一度という処罰を喰らった。
さて、中央幼年学校時代の永田鉄山は、「負けじ魂」を以って始終し、在校二年、首席で卒業し、御前講演の栄に浴し、「文武兼備の必要」と題して講演し、銀時計の下賜を受けた。
「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、明治三十六年五月永田鉄山は士官候補生として歩兵第三連隊に入隊し、六月五日に緋色の襟章に「3」の字を付けた。
「永田! 腹退け!」。教練のとき、しばしばこの注意が永田候補生に与えられたほど、彼は腹の出た姿勢だった。特にそれが歩くときには、はなはだしく、一層反身になって下腹の出る癖があった。
当時士官候補生たちは、「候補生の教練は型だけだ、まだまだ本物になってはおらぬ」と小言を喰らい、相当厳しく鍛えられた。永田候補生は、この「腹退け!」以外は余り注意を受けなくなった。
士官候補生になって一か月ぐらいたったある日、予定の連隊教練が豪雨で中止になり、中隊は舎内で各個教練をするようにと予定が変更されたが、候補生にはその伝達がなかった。
ようやく変更予定を知った候補生一同は、大急ぎで服装を整え、出場したが、遅刻した。その時、中隊附中尉が候補生を次のように叱責した。
「士官候補生は、何故本日の連隊教練を知りつつ、その服装を週番士官に質さなかったか、単なる一兵卒ならば、ただ命令を待っておれば良い」
「だが、いやしくも将校の卵たるものが、その辺の思慮が無くてどうする。また、週番下士官もこれを伝達したのだろう」。
このことについて、永田候補生は、当日の日誌に次のように所感を書きこんでいる。当時の永田候補生の徹底主義の片鱗がうかがわれる。
「……週番下士〇〇伍長は敢えてこれを通知したる事なく、何も恥ずる色なく、昨日午後四時これを通知した旨答え、後に至り四時は誤りにして一時なりとか、誰に通知したとか頗る曖昧なる言句を弄し全く其の職責を尽くさず、虚偽の報告をなせり」
「而も中尉殿は深くこれを咎むることなかりき。予は思う、苟も伍長の職を奉ずるものが虚偽の申し立てをなし恬として顧みざるに、上官たるものが、これに対し厳に叱責を与え処分せざるは何の故にや、頗る怪訝に堪えざる所、斯くせざれば部下の信用を得る事能わずとせば、日本将校の威信も亦低卑なるものかな」。
純情無垢の永田ら候補生が、要領の良い下士官に対するある種の反感の現れの一つとも見えるが、永田鉄山の主義は、情実や阿諛が大嫌いで、どこまでも正義と実力で行こうというものだった。
隊附きも終わりに近づき、士官学校に入校しようとする頃、中隊の給養掛軍曹がそれとなく候補生らの成績の内容を漏らした。
鉄山は「ハア、必ずともにお言葉を」と、父が臨終に残した遺言と、鉄山が誓った言葉とが、永田鉄山を軍人の道に進ませ、その栄光の階段を昇らせて行った。
だが、永田鉄山は栄光の階段を上る途中、相沢中佐による突然の凶行で、落命した。このような突発的な事故の兆候は、若い頃より多々見られた。
明治三十六年、永田鉄山は中央幼年学校の生徒であったが、当時なかなか「負けじ魂」の持ち主だった。夏のことだった。寝具を整頓する際、蚊帳をはずそうとした時、どうしたはずみか吊手の金具がはずれて、彼の眉間を強く打ち、裂傷を負った。
休養室で治療を受けねばならぬほどだった。だが、この時、永田生徒は痛いとも何とも一言の弱音を吐かず、ジッと歯を食いしばったまま我慢をしていた。
また、幼年学校在校中、郷里へ帰郷する途中、犀川にさしかかったが、あいにく渡し船がない。そこで鉄山はいきなり川に飛び込んで泳ぎだした。
だが、流れが急なので、流されて溺れそうになった。その時、遠方でこれを見た百姓が飛び込んで助けてくれて、ようやく一命を取り止めたこともあった。
陸軍大学校の学生時代、風呂屋に行って入浴中、衣類全部を何者かに着て行かれてしまった。風呂屋の使いが着物を家に取りに行ったが、ほかに着替えが見つからなかった。
その時、ちょうど同期生の川上の依頼で、仕立屋から一重重ねの和服が出来てきていたので、それを借りて間に合わせた。
幼年学校時代、負けぬ気の永田生徒は、趣味として囲碁を好み、日曜・休日等には、盛んに同志と戦ったが、腕前はそれほどでもなかった。
後日のことだが、陸軍大学校の学生時代、勝負に夢中になり、学科時間まで及んだため、陸軍生活中ただの一度という処罰を喰らった。
さて、中央幼年学校時代の永田鉄山は、「負けじ魂」を以って始終し、在校二年、首席で卒業し、御前講演の栄に浴し、「文武兼備の必要」と題して講演し、銀時計の下賜を受けた。
「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、明治三十六年五月永田鉄山は士官候補生として歩兵第三連隊に入隊し、六月五日に緋色の襟章に「3」の字を付けた。
「永田! 腹退け!」。教練のとき、しばしばこの注意が永田候補生に与えられたほど、彼は腹の出た姿勢だった。特にそれが歩くときには、はなはだしく、一層反身になって下腹の出る癖があった。
当時士官候補生たちは、「候補生の教練は型だけだ、まだまだ本物になってはおらぬ」と小言を喰らい、相当厳しく鍛えられた。永田候補生は、この「腹退け!」以外は余り注意を受けなくなった。
士官候補生になって一か月ぐらいたったある日、予定の連隊教練が豪雨で中止になり、中隊は舎内で各個教練をするようにと予定が変更されたが、候補生にはその伝達がなかった。
ようやく変更予定を知った候補生一同は、大急ぎで服装を整え、出場したが、遅刻した。その時、中隊附中尉が候補生を次のように叱責した。
「士官候補生は、何故本日の連隊教練を知りつつ、その服装を週番士官に質さなかったか、単なる一兵卒ならば、ただ命令を待っておれば良い」
「だが、いやしくも将校の卵たるものが、その辺の思慮が無くてどうする。また、週番下士官もこれを伝達したのだろう」。
このことについて、永田候補生は、当日の日誌に次のように所感を書きこんでいる。当時の永田候補生の徹底主義の片鱗がうかがわれる。
「……週番下士〇〇伍長は敢えてこれを通知したる事なく、何も恥ずる色なく、昨日午後四時これを通知した旨答え、後に至り四時は誤りにして一時なりとか、誰に通知したとか頗る曖昧なる言句を弄し全く其の職責を尽くさず、虚偽の報告をなせり」
「而も中尉殿は深くこれを咎むることなかりき。予は思う、苟も伍長の職を奉ずるものが虚偽の申し立てをなし恬として顧みざるに、上官たるものが、これに対し厳に叱責を与え処分せざるは何の故にや、頗る怪訝に堪えざる所、斯くせざれば部下の信用を得る事能わずとせば、日本将校の威信も亦低卑なるものかな」。
純情無垢の永田ら候補生が、要領の良い下士官に対するある種の反感の現れの一つとも見えるが、永田鉄山の主義は、情実や阿諛が大嫌いで、どこまでも正義と実力で行こうというものだった。
隊附きも終わりに近づき、士官学校に入校しようとする頃、中隊の給養掛軍曹がそれとなく候補生らの成績の内容を漏らした。