だが、渡辺大佐は少将に昇進、歩兵第三一旅団長として栄転して行き、その後任に、永田少尉と同郷の堀内文次郎(ほりうち・ぶんじろう)中佐(長野・陸士旧七期・参謀本部高級副官・歩兵第五八連隊長・歩兵大佐・少将・歩兵第二三旅団長・中将・従四位・勲二等・功三級)が連隊長に就任した。
ある日、堀内連隊長が親しく、永田少尉に会った時、堀内連隊長が突然、「永田!お前は、酒と女をつつしめ!」と言った。永田少尉は恐縮して、「ハッ」と答えて、そのままその場を引き下がった。
永田少尉は、もともと酒は相当に飲んだが、女に関する点では、決して耽溺するというような事は無かったので、連隊長の態度が腑に落ちなかった。だが、これには次のような仔細があった。
永田少尉が以前、鎮南浦の某旅館に滞在していた時、給仕に出た旅館の美人従業員が、その後大連に移り、そこから永田少尉に手紙を出したのを見られた、のが原因だった。
しかも、その当時の師団の高級副官が、永田少尉の兄、永田十寸穂少佐(歩兵中佐・大正二年死去)だった。このことから、永田十寸穂少佐が堀内中佐に耳打ちしたものと推察されたので、永田少尉は「とても頭が上がらずか(方言)」と、こぼしていたといわれる。
明治四十年の正月、永田少尉ら同期生八名は、堀内連隊長の宿舎に飲みに行った。ところが堀内大佐(昇進)は不在で、従兵のみが留守番をしていた。
そこで永田少尉らは、この従兵に命じて、勝手な大振る舞いをさせ、さらに、堀内大佐秘蔵の金口煙草までも吸い上げて、引き揚げた。
後日、堀内大佐は、「若い将校は元気がある」と、誉め言葉だったが、そのあと、永田少尉らは大目玉を頂戴した。この行動を主導したのは、永田少尉だった。
明治四十年春、歩兵第五八連隊は、韓国守備の任を終えて、内地へ帰還し、越後高田(新潟県)に駐屯した。
ある日、永田鉄山中尉が担当する連隊教練の実施日だったが、前夜から豪雨が降り続いていた。予定の整列時刻が迫るが豪雨は止まず、しかも連隊本部からは中止とも何とも命令がなかった。
この日の教練科目は、単に連隊内の連絡・協同動作の研究であって、強いて豪雨の中を敢行する必要はないものだった。
だが、風変わりな堀内連隊長のことなので、下手に申し出ては、お目玉頂戴はまだしも、かえって藪蛇の恐れがあった。だから、心密かに教練中止を願っていても、誰一人堀内連隊長に伺いを立てる者はいなかった。
そんな中、中隊長代理・永田中尉が、中隊に武装を整えさせ、舎内に待機するよう命令した。そして、永田中尉自身は、演習出場の服装も凛々しく、豪雨の中を、悠々と連隊長室に向かった。
永田中尉は連隊長室に入ると、慇懃な敬礼をして、「中隊は演習出場の準備は、整っておりますが、予定通り整列させますか」と、堀内連隊長に伺った。
永田中尉と降る雨を、まじまじと見つめた堀内連隊長は、「本日の連隊教練は取り止め」と言った。永田中尉は「ハア……」と言って、連隊長室を出ていった。その時の永田中尉は得意顔であった。
その後姿を、苦笑しながら見つめ続けた堀内連隊長。永田中尉は全身ずぶ濡れだったので、連隊長室の永田中尉が立っていた所は、一面に雨水が溜っていた。後日、堀内連隊長は「永田という男は、始末の悪い奴だ」と漏らしたという。
明治四十一年十二月、陸士十六期の同期生の中では、永田鉄山中尉、小畑敏四郎中尉、藤岡萬蔵中尉、谷実夫中尉の四人だけが、初めて陸軍大学校(二三期)に入学した。
陸軍大学校の第三学年の時、永田中尉は健康を害して、講義をよく欠席した。同学年の時、近衛工兵連隊への隊附は健康不良のため、ついに実施されなかった。そして卒業前の参謀演習旅行には、病を押して九州の山野を駆け回った。だが、成績は優秀だった。
陸軍大学校の試験を前にして、永田中尉は、悠々と試験科目外の中国語をやっていた。それを見た同期の小畑敏四郎中尉が「俺たちが惨めになるから、せめて試験勉強をするふりでもしてくれよ」と永田中尉に言った。それほど優秀だった。
陸軍大学校(二三期)の卒業成績は、永田中尉は次席だった。首席は梅津美治郎(うめづ・よしじろう)中尉(大分・陸士一五・七席・陸大二三・首席・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部総務部長・スイス公使館附武官・支那駐屯軍司令官・中将・第二師団長・陸軍次官・第一軍司令官・関東軍司令官・大将・関東軍総司令官・参謀総長・大本営全権として降伏文書調印式に出席)だった。
ある日、堀内連隊長が親しく、永田少尉に会った時、堀内連隊長が突然、「永田!お前は、酒と女をつつしめ!」と言った。永田少尉は恐縮して、「ハッ」と答えて、そのままその場を引き下がった。
永田少尉は、もともと酒は相当に飲んだが、女に関する点では、決して耽溺するというような事は無かったので、連隊長の態度が腑に落ちなかった。だが、これには次のような仔細があった。
永田少尉が以前、鎮南浦の某旅館に滞在していた時、給仕に出た旅館の美人従業員が、その後大連に移り、そこから永田少尉に手紙を出したのを見られた、のが原因だった。
しかも、その当時の師団の高級副官が、永田少尉の兄、永田十寸穂少佐(歩兵中佐・大正二年死去)だった。このことから、永田十寸穂少佐が堀内中佐に耳打ちしたものと推察されたので、永田少尉は「とても頭が上がらずか(方言)」と、こぼしていたといわれる。
明治四十年の正月、永田少尉ら同期生八名は、堀内連隊長の宿舎に飲みに行った。ところが堀内大佐(昇進)は不在で、従兵のみが留守番をしていた。
そこで永田少尉らは、この従兵に命じて、勝手な大振る舞いをさせ、さらに、堀内大佐秘蔵の金口煙草までも吸い上げて、引き揚げた。
後日、堀内大佐は、「若い将校は元気がある」と、誉め言葉だったが、そのあと、永田少尉らは大目玉を頂戴した。この行動を主導したのは、永田少尉だった。
明治四十年春、歩兵第五八連隊は、韓国守備の任を終えて、内地へ帰還し、越後高田(新潟県)に駐屯した。
ある日、永田鉄山中尉が担当する連隊教練の実施日だったが、前夜から豪雨が降り続いていた。予定の整列時刻が迫るが豪雨は止まず、しかも連隊本部からは中止とも何とも命令がなかった。
この日の教練科目は、単に連隊内の連絡・協同動作の研究であって、強いて豪雨の中を敢行する必要はないものだった。
だが、風変わりな堀内連隊長のことなので、下手に申し出ては、お目玉頂戴はまだしも、かえって藪蛇の恐れがあった。だから、心密かに教練中止を願っていても、誰一人堀内連隊長に伺いを立てる者はいなかった。
そんな中、中隊長代理・永田中尉が、中隊に武装を整えさせ、舎内に待機するよう命令した。そして、永田中尉自身は、演習出場の服装も凛々しく、豪雨の中を、悠々と連隊長室に向かった。
永田中尉は連隊長室に入ると、慇懃な敬礼をして、「中隊は演習出場の準備は、整っておりますが、予定通り整列させますか」と、堀内連隊長に伺った。
永田中尉と降る雨を、まじまじと見つめた堀内連隊長は、「本日の連隊教練は取り止め」と言った。永田中尉は「ハア……」と言って、連隊長室を出ていった。その時の永田中尉は得意顔であった。
その後姿を、苦笑しながら見つめ続けた堀内連隊長。永田中尉は全身ずぶ濡れだったので、連隊長室の永田中尉が立っていた所は、一面に雨水が溜っていた。後日、堀内連隊長は「永田という男は、始末の悪い奴だ」と漏らしたという。
明治四十一年十二月、陸士十六期の同期生の中では、永田鉄山中尉、小畑敏四郎中尉、藤岡萬蔵中尉、谷実夫中尉の四人だけが、初めて陸軍大学校(二三期)に入学した。
陸軍大学校の第三学年の時、永田中尉は健康を害して、講義をよく欠席した。同学年の時、近衛工兵連隊への隊附は健康不良のため、ついに実施されなかった。そして卒業前の参謀演習旅行には、病を押して九州の山野を駆け回った。だが、成績は優秀だった。
陸軍大学校の試験を前にして、永田中尉は、悠々と試験科目外の中国語をやっていた。それを見た同期の小畑敏四郎中尉が「俺たちが惨めになるから、せめて試験勉強をするふりでもしてくれよ」と永田中尉に言った。それほど優秀だった。
陸軍大学校(二三期)の卒業成績は、永田中尉は次席だった。首席は梅津美治郎(うめづ・よしじろう)中尉(大分・陸士一五・七席・陸大二三・首席・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部総務部長・スイス公使館附武官・支那駐屯軍司令官・中将・第二師団長・陸軍次官・第一軍司令官・関東軍司令官・大将・関東軍総司令官・参謀総長・大本営全権として降伏文書調印式に出席)だった。