陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

502.永田鉄山陸軍中将(2)龜さやァ。亀の爪は虎の爪よりこわい

2015年11月06日 | 永田鉄山陸軍中将
 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、永田鉄山は、明治十七年一月十四日、永田志解理(しげり)の四男として、長野県諏訪郡上諏訪町本町に生まれた。

 永田家は代々医を業とした名門の家柄だった。父の永田志解理は、当時、郡立高島病院の院長で、名士で、「院長様、院長様」と呼ばれて敬われていた。人物も極めて温和で、人格者だった。

 家庭も裕福で、居宅も大きく、庭内から温泉も湧き出ていた。永田鉄山には、三人の異母兄と一人の異母姉があり、母(順子)の同じ二人の弟と二人の妹がいた。

 上諏訪町立高島尋常高等小学校では、永田鉄山は「鉄サー」と呼ばれ、院長様の息子として一目置かれていたが、鉄山はかなり腕白者だった。だが、決して意地悪ではなく、他人をいじめたり、迷惑をかけるということはなかった。

 明治二十六年、永田鉄山は高島尋常高等小学校の三年生だった。当時の同級生・浜亀吉氏は回顧して次のように述べている(要旨抜粋)。

 当時は机、腰掛は三人掛けで、私の右が永田、左が藤原咲平、互いに腕力家でした。ある日大喧嘩をしたことがあり、事の起こりは習字の時間にいたずらが過ぎて、永田がわしの白絣の着物に墨をくっつけた。

 それで私も負けずに組み付いて顔を引っ掻き、三筋のバラザキをこしらえてしまった。藤原の仲裁でその場はおさまったが、あとで林三郎先生に叱られ、二人ともおトマリをくわされた。

 しかし日を経るにしたがって仲良しになって、三年と四年級を卒業し、間もなく永田さんと別れることになり、送別会をした。

 それから十年の後、私は徴兵検査に合格したが、その時永田さんから「甲種砲兵合格を祝う、よって砲兵須知を贈る。大いに勉強し給え」という祝いの手紙に添えて、「砲兵須知」の本を頂いた。

 また、上京して新橋の「今朝」にコックとして働いていた時、藤原咲平君の紹介で、永田さんと「今朝」の一室で会食し、軍服を脱いでもらって、昔の同級生気分で語り合い、話に花が咲いた。

 その時、永田さんが「龜さやァ。亀の爪は虎の爪よりこわい、この顔のあとを見ろや」と言われて赤面した事を思い出す。

 昭和五年六月、参謀本部に行き、面会を求めた時は、藤原君から教えられた通り、取り次ぎ用箋に「三分間廊下にても拝顔を得、閣下の健勝を祈る」と書いて出したが受付で許されない。

 ところが、永田さんは用箋を見てすぐ「案内せよ」と下命し、取次の将校が狼狽し、三分間はおろか三十分も昔話をすることができた。これが閣下とのお別れだった。

 明治二十七年、日清戦争が起きた時、鉄サーは高等一年生だった。当時子供たちの間に戦争ごっこが流行っていた。

 日本海軍の第一遊撃艦隊を真似して、同級の岩波茂雄(岩波書店創立者)ら仲間と鉄サーが軍艦になって、敵艦となった子供たちと戦遊びをした。

 また鉄サーは仲間たちと、他のによく喧嘩に出掛け、石合戦も行った。子供ながらに、両軍とも智謀を廻らし、計略をし、迂回したり、挟み撃ちにしたりして、激しい戦いをして、日没頃まで遊んだ。鉄サーは、負けず嫌いだったので、いつも大将だった。

 このように腕白で勝気な鉄山であったが、反面、どことなく、やさしいというか、弱弱しい性格も、併せ持っていたという。

 学校からの帰り道、町の腕白どもが、小柄の弱い同級生をいじめている時、鉄山は中に飛び込んで弱いものを助けたりした。そして、腕白どもに、「弱い者いじめをやめて、一緒に陣取りをやろうや」と、当時子供たちの間で流行った陣取りゲームを共にやって遊んで仲良くさせた。

 永田鉄山の生涯持ち合わせた「義侠心」は、この少年時代から芽生えていた。また鉄山の性格は、極めて正直であり、実直であったが、それは少年時代から人目を引くほど顕著なものだった。

 小学校で、受け持ちの先生が生徒に手帖を渡して、自分の善悪の行いを毎日、白丸と黒丸を付けて提出するように命じた。毎夜、それを父の前で記入して、説明することになっていたが、鉄山は、いつも正直に書いて出したので、時には黒丸ばかりのこともあり、先生から訓戒を受けたこともあった。

 いつも厳格な鉄山の父・志解理は、この記入の時に限って何の小言も言わず、笑顔で聞くのみで、鉄山の思うがままに記入させた。