陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

486.東郷平八郎元帥海軍大将(26)これまでは「閣下」とあったが、この手紙では「君」となっていた

2015年07月17日 | 東郷平八郎元帥
 この文面が小笠原少将の胸にカチリときた。とても書く気になれなかった。依頼するには依頼する法がある。この依頼主は自分を何様だと思っているのだろうか。

 小笠原少将は届いた箱の包みも解かないで、無言でそれを送り返した。すると彼はまた性懲りもなく、それを送り返してきた。小笠原少将もまた意地になって、それを彼に送り付けた。

 こんなやり取りが数回続いた。すると彼はやけになって次のような手紙を送り付けて来た。

 「どうしても君が書いてくれないのなら、当方にも考えがある。返された包みの中に君の手で姓名が書いたものがあるから、それを切り取って証明に当てるから、覚悟願いたい」。

 これまでは「閣下」とあったが、この手紙では「君」となっていた。これで彼は溜飲を下げたつもりであっただろう。あまりに身勝手な言い分なので、小笠原少将はそれを黙殺した。

 しかし、それでも小笠原少将は腹の虫が納まらないので、東郷元帥についつい話してしまった。それを聞いた東郷元帥は小笠原少将に次のように訊ねた。

 「わしにはとうてい想像もできないことだ。そのような人間もいるものか。ところで、その書はわしの書いたものかな」。

 「それは分りかねます。その書を見ておりませんから」と小笠原少将が答えると、東郷元帥は苦笑して「それではいくら子爵でも、箱書きの書きようがないではないか」と言った。

 また、当時の一新聞は、東郷家の表札について、特ダネとして次のような記事を掲載した。

 「東郷と書いてある表札は何時見ても新しく、……その理由は頗る振ったものである。何事にも几帳面な元帥は『自分の表札は自分で書くべきで、他人に書かしたくない』というて、いつも武張った直筆を揮(ふる)うのだ」

 「それを伝え聞いた悪戯者は、元帥の真筆を手に入れるのはこの時と許り、間がな日がな狙いをつけて無遠慮に引き剥がし持ち行くので、堅固に五寸釘で打ち付けて置いても禦ぎ得ず、一週間位には大抵新しく替えられて居、今では同邸にては同じような表札を幾枚も用意して置き、それッと何時でも元帥が筆を下し得るようにしているそうな」。

 この記事の真偽のほどは分らない。だが、一時東郷家の表札がなかったことは事実である。それに気づいて小笠原少将は東郷元帥に「最近御門の表札が見えませんが……」と言った。

 すると東郷元帥は「それがよく無くなるんだ」と答えた。小笠原少将が「警察は何とも言って来ませんか」と聞くと、「いや、別に何とも言うてこんよ」と東郷元帥は言った。東郷元帥はこのことを警察に届けなかった。

 だが、東郷元帥は、このことに懲りて、もう自筆を揮わなくなった。そうなると、世間は敏感なものである。それ以来というもの、はたと表札の剥ぎ取りが後を絶った。

 その次は、今度は東郷家の「小石拾い」と「水貰い」が始まった。「小石拾い」とは、文字通り、東郷邸の小石を記念に持ち去ることである。中には邸内の土を持ち帰る者もいた。

 その一人で、刀鍛冶と称する者は、名刀を作り上げるために焼刃に使う土の中に入れて聖将の武徳にあずかるのだと言った。それで厄介なのは、彼らがいちいち玄関に取次ぎを求め、東郷元帥の承諾を得た上で持ち帰ったことである。

 これには東郷元帥もいささかあきれ、面倒くさくもあって、「一つ二つなら、わざわざ断るまでもない。勝手に拾っていかれるがよい」と言った。

 ところが、彼らにとっては、そうはいかぬ事情があるらしかった。律義というか何というか、彼らは口々に「それはできませぬ。閣下のお許しがあって、はじめて有難味が出ます」と言った。これには、「そういうものか」と東郷元帥も唖然としてあごを撫でたという。

 また、「水貰い」は、東郷邸の井戸の水を、用意したビンに入れて持ち帰ることである。彼らもいちいちそれを東郷元帥まで断りを入れた。

 ある日、佐渡島の両津の者が訪ねて来て、三本のビンを持ち込み、東郷元帥に次のように言って、井戸水をねだった。

 「これは飲むためではありません。一本は神棚に供えます。二本目は田畑に、三本目は梅の木に注ぎます」。

 東郷元帥は慣れっこになっていたので「こんな水でよければいつでも……、佐渡との往き帰りは難儀じゃのう」と言って応じた。

 ところが、それから間もなく、両津に大火事があって、一面が焼け野原になった。その中にあって、彼の家だけは不思議と焼け残った。彼は早速このことを東郷元帥に報告し感謝して来て、「これひとえに、元帥閣下の神水のいたらしめるところである」と言ったという。