それ位であるから、東郷大将はよく字を書いた。頼みに来た人によって、その人にマッチした内容の文章のものを選んでは書いた。その数も相当のものだった。
東郷大将の伝記作者・小笠原長生(おがさわら・ながなり)中将(東京・老中小笠原長行の長男・子爵・海兵一四・海大丙種学生・軍令部諜報課員・少佐・防護巡洋艦「千代田」副長・軍令部参謀・日露戦争・中佐・大佐・学習院御用掛・装甲巡洋艦「常盤」艦長・戦艦「香取」艦長・東宮御学問所幹事・少将・中将・予備役・宮中顧問官・正二位・勲一等・功四級)は、後に「東郷元帥の書と言われるものは、内輪に見積もっても全国で二十万枚が散在する理屈だ」と言っている。
だが、之には問題があった。その大部分が偽筆なのである。このことから、小笠原長生は、「世間に最も多くて、最も少ないのは東郷元帥の書であろう」とも言っている。ともかく偽作者は好んで東郷元帥の書を書いた。その結果また悲喜劇を生むことになった。
明治三十九年頃、ある日東郷大将の偽筆を真筆と称し、売買しようとした男がつかまった。警察ではそれを直接東郷大将のもとに持参して真偽の鑑定を願い出た。
東郷大将は一見してそれが偽筆と判った。東郷大将はそれをそのまま口にした。つかまった男は罪に問われた。これには東郷大将も後味が悪かった。
小笠原長生海軍大佐が東郷大将のもとを訪れると、東郷大将を重い口を開き、次のように言った。
「偽筆の売買でつかまった男な。あれの親父は水兵で「三笠」に乗っておったそうな。いっそのこと、あの書は、わしが書いたんじゃと言ってやればよかった。罪にならなくとも済んだじゃろうに。不憫なことをしたよ」。
それを聞いた小笠原大佐は、きっとなって、「閣下、何をおっしゃられます。そんな横着者のいうことなんか、真に受けられますな。おそらく閣下の同情をひくために、でたらめを述べたのでしょう」と言った。
東郷大将は「そういうものかの」と言うと、しっと考え込んでいた。東郷大将が自分の書に対して、決して真偽を言わなくなったのは、この事件以来だった。
東郷大将から鑑定を得ることが出来ないことがいつしか世間に知られると、好事家たちは、たちまち小笠原長生大佐に白羽の矢を立てた。小笠原大佐は特別の才能で、よく東郷大将の書の真偽を見抜いた。それだけに小笠原大佐の箱書きや証明は彼らの間で高い評価を得ていた。
ある時、小笠原大佐が東郷邸に顔を出すと、東郷大将は彼を待ち受けていて、小笠原大佐を客間に通すなり、東郷元帥はテーブルの上の一通の手紙を示して「それを読んでごらん」と言って笑った。
差し出された手紙を見て、小笠原大佐もあきれ果てた。よくぞ書いたものである。罫紙二十数枚に、虫眼鏡を必要とするような細字でたんねんに紙一杯に書かれていた。
読み進むうちに小笠原大佐は笑いがこみあげて来た。その手紙には、まず自分の祖先以来の系図を掲げ、それから自分の経歴、家族状況、所有財産が明示されていた。これが前書きである。そのあと本題の要旨は次のようなものであった。
「自分はある人から東郷閣下の真筆を譲り受けた。ところが知人から小笠原長生子爵の箱書きがないと不十分と言われ、自分もその気になって再三手紙で子爵に交渉したが、子爵は一向に応じてくれない」
「自分がこのように誠意を示しているのに、子爵のやり方は不埒至極である。よって厚かましいとは思いますが、閣下にこの次第を申し上げ、閣下から子爵へ箱書きいたすよう、きつくご命令下さるようお願い申し上げます。恐惶謹言」。
小笠原大佐が思わず、ぷっと吹き出すと、珍しく東郷大将もそれにつられて、大声で笑って、「不埒至極がよい。一つ命令するか」と言った。
小笠原大佐も相槌を打って、「箱書きをいたしましょう。ただし、東郷閣下の筆跡、真偽不明。裏に不埒至極居士誌とでも書きますか」と答えた。
東郷大将はますます機嫌がよく「子爵から箱書きをして貰ってくれという依頼は時々ある。しかし不埒至極というのは今度が初めてじゃ。無遠慮な奴じゃ。どっちが不埒至極かわからん」と言った。
小笠原大佐が「しかし、罫紙二十数枚に書く根気は他に例がないでしょう。書いてやりましょうか」と言うと、東郷大将は「それは子爵の随意だ。わしは別段勧めはせんよ」と答えた。
結局小笠原大佐は箱書きを書いてやらなかった。手紙の主は東郷大将と小笠原大佐のどちらを怨んだだろうか。
大正四、五年頃、小笠原少将は、ある出来事を境にして、親族、知人以外には、箱書きを書かなくなった。その出来事とは、小笠原少将のもとに突然手紙と木箱を送り付けて来た者があったのだ。その手紙には高飛車に次のように記されていた。
「私は東郷閣下の御書を譲り受けたが、閣下には箱書きをお書き下さると聞いている。よって閣下のお手許に郵送いたしましたので、なるべく速に御認め下されたく、もちろん閣下にも御異存のあるべきはずが無かるべく念のため一応申し添えます」。
東郷大将の伝記作者・小笠原長生(おがさわら・ながなり)中将(東京・老中小笠原長行の長男・子爵・海兵一四・海大丙種学生・軍令部諜報課員・少佐・防護巡洋艦「千代田」副長・軍令部参謀・日露戦争・中佐・大佐・学習院御用掛・装甲巡洋艦「常盤」艦長・戦艦「香取」艦長・東宮御学問所幹事・少将・中将・予備役・宮中顧問官・正二位・勲一等・功四級)は、後に「東郷元帥の書と言われるものは、内輪に見積もっても全国で二十万枚が散在する理屈だ」と言っている。
だが、之には問題があった。その大部分が偽筆なのである。このことから、小笠原長生は、「世間に最も多くて、最も少ないのは東郷元帥の書であろう」とも言っている。ともかく偽作者は好んで東郷元帥の書を書いた。その結果また悲喜劇を生むことになった。
明治三十九年頃、ある日東郷大将の偽筆を真筆と称し、売買しようとした男がつかまった。警察ではそれを直接東郷大将のもとに持参して真偽の鑑定を願い出た。
東郷大将は一見してそれが偽筆と判った。東郷大将はそれをそのまま口にした。つかまった男は罪に問われた。これには東郷大将も後味が悪かった。
小笠原長生海軍大佐が東郷大将のもとを訪れると、東郷大将を重い口を開き、次のように言った。
「偽筆の売買でつかまった男な。あれの親父は水兵で「三笠」に乗っておったそうな。いっそのこと、あの書は、わしが書いたんじゃと言ってやればよかった。罪にならなくとも済んだじゃろうに。不憫なことをしたよ」。
それを聞いた小笠原大佐は、きっとなって、「閣下、何をおっしゃられます。そんな横着者のいうことなんか、真に受けられますな。おそらく閣下の同情をひくために、でたらめを述べたのでしょう」と言った。
東郷大将は「そういうものかの」と言うと、しっと考え込んでいた。東郷大将が自分の書に対して、決して真偽を言わなくなったのは、この事件以来だった。
東郷大将から鑑定を得ることが出来ないことがいつしか世間に知られると、好事家たちは、たちまち小笠原長生大佐に白羽の矢を立てた。小笠原大佐は特別の才能で、よく東郷大将の書の真偽を見抜いた。それだけに小笠原大佐の箱書きや証明は彼らの間で高い評価を得ていた。
ある時、小笠原大佐が東郷邸に顔を出すと、東郷大将は彼を待ち受けていて、小笠原大佐を客間に通すなり、東郷元帥はテーブルの上の一通の手紙を示して「それを読んでごらん」と言って笑った。
差し出された手紙を見て、小笠原大佐もあきれ果てた。よくぞ書いたものである。罫紙二十数枚に、虫眼鏡を必要とするような細字でたんねんに紙一杯に書かれていた。
読み進むうちに小笠原大佐は笑いがこみあげて来た。その手紙には、まず自分の祖先以来の系図を掲げ、それから自分の経歴、家族状況、所有財産が明示されていた。これが前書きである。そのあと本題の要旨は次のようなものであった。
「自分はある人から東郷閣下の真筆を譲り受けた。ところが知人から小笠原長生子爵の箱書きがないと不十分と言われ、自分もその気になって再三手紙で子爵に交渉したが、子爵は一向に応じてくれない」
「自分がこのように誠意を示しているのに、子爵のやり方は不埒至極である。よって厚かましいとは思いますが、閣下にこの次第を申し上げ、閣下から子爵へ箱書きいたすよう、きつくご命令下さるようお願い申し上げます。恐惶謹言」。
小笠原大佐が思わず、ぷっと吹き出すと、珍しく東郷大将もそれにつられて、大声で笑って、「不埒至極がよい。一つ命令するか」と言った。
小笠原大佐も相槌を打って、「箱書きをいたしましょう。ただし、東郷閣下の筆跡、真偽不明。裏に不埒至極居士誌とでも書きますか」と答えた。
東郷大将はますます機嫌がよく「子爵から箱書きをして貰ってくれという依頼は時々ある。しかし不埒至極というのは今度が初めてじゃ。無遠慮な奴じゃ。どっちが不埒至極かわからん」と言った。
小笠原大佐が「しかし、罫紙二十数枚に書く根気は他に例がないでしょう。書いてやりましょうか」と言うと、東郷大将は「それは子爵の随意だ。わしは別段勧めはせんよ」と答えた。
結局小笠原大佐は箱書きを書いてやらなかった。手紙の主は東郷大将と小笠原大佐のどちらを怨んだだろうか。
大正四、五年頃、小笠原少将は、ある出来事を境にして、親族、知人以外には、箱書きを書かなくなった。その出来事とは、小笠原少将のもとに突然手紙と木箱を送り付けて来た者があったのだ。その手紙には高飛車に次のように記されていた。
「私は東郷閣下の御書を譲り受けたが、閣下には箱書きをお書き下さると聞いている。よって閣下のお手許に郵送いたしましたので、なるべく速に御認め下されたく、もちろん閣下にも御異存のあるべきはずが無かるべく念のため一応申し添えます」。