バルチック艦隊が全滅したために、ロシア皇帝ニコライ二世は、ロシア国内に革命が起きそうな事情もあり、アメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトの呼びかけに応じて、日本と講和をすることにした。
アメリカ、ニューハンプシャー州のポーツマスで、明治三十八年九月五日、日露講和条約が調印され、一年七か月に渡った日露戦争は幕を閉じた。条約の主な内容は次のようなものだった。
ロシア軍は満州から撤兵する。旅順―長春間の東清鉄道と、ロシアが清から租借している遼東半島を日本に譲渡する。ロシアは、朝鮮における日本の優先的諸権益を認める。ロシアは、日本の日本海、オホーツク海、ベーリング海に臨むロシア沿岸地域の漁業権を認める。
賠償金はゼロだった。ロシアが、「賠償金を払うくらいなら、再び戦争を始めると主張したのに対して、日本は経済的にも陸軍力にも余裕がなく、しぶしぶ同意せざるを得なかった。
「東郷平八郎元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、日露戦争に日本が動員した兵力は総勢百八万八千人。戦死者四万六千人、戦病・負傷者十七万人、捕虜二千人にのぼった。
失った艦艇は軍艦十二隻、輸送船五十四隻、ほかに水雷艇、閉塞船など。使った軍費は、陸軍が約十三億円、海軍が約二億四千万。他の費用も合わせて、日露戦争に二十億円近くの金が注ぎ込まれた。
二十億円は、現在の貨幣価値にすれば二十兆円を超える巨額だった。当時の通常年間予算の八年分に相当し、国家収入のほとんどを使い果たし、足りない分は外国からの借金でまかなった。
当時の桂太郎(かつら・たろう)首相(長州=山口・戊辰戦争・第二大隊司令・ドイツ留学・陸軍大尉・ドイツ駐在武官・日清戦争に第三師団長として出征・台湾総督・陸軍大臣・大将・総理大臣・日露戦争・総理大臣<第二次組閣>・総理大臣<第三次組閣>・死去・従一位・大勲位菊花章頸飾・功三級・公爵)は戦争終結後の、明治三十八年十二月二十八日総辞職した。
司令長官・東郷平八郎大将の連合艦隊も、十二月二十日解散した。翌二十一日の連合艦隊解散式で、東郷大将は次のような解散の辞(訓示)を述べた(要旨)。
「我が連合艦隊は今やその隊務を結了してここに解散することとなれり。然れども我ら海軍軍人の責務は決してこれがために軽減せるものにあらず。この戦役の収果を永遠に全うし、なお益々国運の隆昌を扶持せんには時の平戦を問わず、まず外衛に立つべき海軍が常にその武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す」
「かくして武力なるものは艦船兵器等のみにあらずしてこれを活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我ら軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず」
「神功皇后三韓を征服し給いし以来韓国は四百余年間我が統理の下にありしも一たび海軍の廃頽するやたちまち之を失い、又近世に入り徳川幕府治平になれて兵備をおこたれば挙国米艦数隻の対応に苦しみ、露艦また千島樺太を覬覦(きゆ=うかがい、ねらう)するもこれと抗争すること能わざるに至れり」
「神明はただ平素の鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれを奪う。古人いわく、勝って兜の緒を締めよ」。
東郷大将のこの訓示は、連合艦隊旗艦「三笠」艦上ではなく、戦艦「朝日」の艦上だった。戦艦「三笠」は佐世保に凱旋後、爆沈事故を起こし、沈没したためだった。
明治三十八年九月十一日午前零時二十分、佐世保港十番ブイに繫がれていた戦艦「三笠」は、突然後部左舷主砲弾薬庫が爆発し、沈没した。
この事故で、二百五十一名の殉職者を出した。爆発の原因は、水兵たちが発火信号用アルコールの飲用に際し、誤って引火し爆発したとの証言がある(松本善治中尉・大正元年)。
明治三十八年十二月二十日、東郷平八郎大将は、連合艦隊司令長官を解任され、伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(鹿児島・神戸海軍操練所・薩英戦争・戊辰戦争・海軍大尉・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・功一級・大勲位菊花大綬章)のあとの軍令部長に就任した。
この頃から、東郷平八郎大将に揮毫を依頼する者が多くなった。「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷大将は元来、書道が好きだった。
書道の手ほどきは、八歳の時に同郷の鹿児島城下、加治屋町の西郷吉二郎(さいごう・きちじろう・鹿児島・薩摩藩下級藩士・御勘定所書役・番兵二番隊監軍・戊辰戦争で戦死・享年三十五歳)に受けた。
ちなみに、西郷吉二郎は西郷隆盛(さいごう・たかもり・鹿児島・薩摩藩下級藩士・郡方書役助(四十一石)・中御小姓(江戸詰)・御庭方役・徒目付・将軍継嗣で一橋慶喜擁立に動く・大老井伊直弼排斥を図る・僧月照と入水し月照は水死するも西郷は助かる・奄美大島に潜居・旧役に復し上京・沖永良部島に遠島・赦免され京都で島津藩の軍賦役(軍司令官)に任命される・禁門の変で長州勢を撃退・勝海舟と協議し長州と緩和・征長軍参謀・長州藩三家老処分・薩長同盟を誓約・薩土盟約・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・東征総督府下参謀・勝海舟と会談し江戸城無血開城・上野戦争・鹿児島藩大参事・常備隊五〇〇〇名を率いて上京・明治天皇・正三位に叙せられる・陸軍元帥兼参議・陸軍大将兼参議・近衛都督・征韓論に敗れ帰郷・鹿児島県に私学校創設・西南戦争で敗れ城山で自刃・享年四十九歳)の弟だった。
東郷平八郎大将は以来、書道の研鑽に励み、暇さえあれば艦内でも運筆を試していた。東郷大将は、筆が上達し、西郷吉二郎から誉められた言葉「仲五(平八郎の幼名)は字が巧か」、をいつまでも忘れなかった。
アメリカ、ニューハンプシャー州のポーツマスで、明治三十八年九月五日、日露講和条約が調印され、一年七か月に渡った日露戦争は幕を閉じた。条約の主な内容は次のようなものだった。
ロシア軍は満州から撤兵する。旅順―長春間の東清鉄道と、ロシアが清から租借している遼東半島を日本に譲渡する。ロシアは、朝鮮における日本の優先的諸権益を認める。ロシアは、日本の日本海、オホーツク海、ベーリング海に臨むロシア沿岸地域の漁業権を認める。
賠償金はゼロだった。ロシアが、「賠償金を払うくらいなら、再び戦争を始めると主張したのに対して、日本は経済的にも陸軍力にも余裕がなく、しぶしぶ同意せざるを得なかった。
「東郷平八郎元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、日露戦争に日本が動員した兵力は総勢百八万八千人。戦死者四万六千人、戦病・負傷者十七万人、捕虜二千人にのぼった。
失った艦艇は軍艦十二隻、輸送船五十四隻、ほかに水雷艇、閉塞船など。使った軍費は、陸軍が約十三億円、海軍が約二億四千万。他の費用も合わせて、日露戦争に二十億円近くの金が注ぎ込まれた。
二十億円は、現在の貨幣価値にすれば二十兆円を超える巨額だった。当時の通常年間予算の八年分に相当し、国家収入のほとんどを使い果たし、足りない分は外国からの借金でまかなった。
当時の桂太郎(かつら・たろう)首相(長州=山口・戊辰戦争・第二大隊司令・ドイツ留学・陸軍大尉・ドイツ駐在武官・日清戦争に第三師団長として出征・台湾総督・陸軍大臣・大将・総理大臣・日露戦争・総理大臣<第二次組閣>・総理大臣<第三次組閣>・死去・従一位・大勲位菊花章頸飾・功三級・公爵)は戦争終結後の、明治三十八年十二月二十八日総辞職した。
司令長官・東郷平八郎大将の連合艦隊も、十二月二十日解散した。翌二十一日の連合艦隊解散式で、東郷大将は次のような解散の辞(訓示)を述べた(要旨)。
「我が連合艦隊は今やその隊務を結了してここに解散することとなれり。然れども我ら海軍軍人の責務は決してこれがために軽減せるものにあらず。この戦役の収果を永遠に全うし、なお益々国運の隆昌を扶持せんには時の平戦を問わず、まず外衛に立つべき海軍が常にその武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す」
「かくして武力なるものは艦船兵器等のみにあらずしてこれを活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我ら軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず」
「神功皇后三韓を征服し給いし以来韓国は四百余年間我が統理の下にありしも一たび海軍の廃頽するやたちまち之を失い、又近世に入り徳川幕府治平になれて兵備をおこたれば挙国米艦数隻の対応に苦しみ、露艦また千島樺太を覬覦(きゆ=うかがい、ねらう)するもこれと抗争すること能わざるに至れり」
「神明はただ平素の鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれを奪う。古人いわく、勝って兜の緒を締めよ」。
東郷大将のこの訓示は、連合艦隊旗艦「三笠」艦上ではなく、戦艦「朝日」の艦上だった。戦艦「三笠」は佐世保に凱旋後、爆沈事故を起こし、沈没したためだった。
明治三十八年九月十一日午前零時二十分、佐世保港十番ブイに繫がれていた戦艦「三笠」は、突然後部左舷主砲弾薬庫が爆発し、沈没した。
この事故で、二百五十一名の殉職者を出した。爆発の原因は、水兵たちが発火信号用アルコールの飲用に際し、誤って引火し爆発したとの証言がある(松本善治中尉・大正元年)。
明治三十八年十二月二十日、東郷平八郎大将は、連合艦隊司令長官を解任され、伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(鹿児島・神戸海軍操練所・薩英戦争・戊辰戦争・海軍大尉・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・功一級・大勲位菊花大綬章)のあとの軍令部長に就任した。
この頃から、東郷平八郎大将に揮毫を依頼する者が多くなった。「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷大将は元来、書道が好きだった。
書道の手ほどきは、八歳の時に同郷の鹿児島城下、加治屋町の西郷吉二郎(さいごう・きちじろう・鹿児島・薩摩藩下級藩士・御勘定所書役・番兵二番隊監軍・戊辰戦争で戦死・享年三十五歳)に受けた。
ちなみに、西郷吉二郎は西郷隆盛(さいごう・たかもり・鹿児島・薩摩藩下級藩士・郡方書役助(四十一石)・中御小姓(江戸詰)・御庭方役・徒目付・将軍継嗣で一橋慶喜擁立に動く・大老井伊直弼排斥を図る・僧月照と入水し月照は水死するも西郷は助かる・奄美大島に潜居・旧役に復し上京・沖永良部島に遠島・赦免され京都で島津藩の軍賦役(軍司令官)に任命される・禁門の変で長州勢を撃退・勝海舟と協議し長州と緩和・征長軍参謀・長州藩三家老処分・薩長同盟を誓約・薩土盟約・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・東征総督府下参謀・勝海舟と会談し江戸城無血開城・上野戦争・鹿児島藩大参事・常備隊五〇〇〇名を率いて上京・明治天皇・正三位に叙せられる・陸軍元帥兼参議・陸軍大将兼参議・近衛都督・征韓論に敗れ帰郷・鹿児島県に私学校創設・西南戦争で敗れ城山で自刃・享年四十九歳)の弟だった。
東郷平八郎大将は以来、書道の研鑽に励み、暇さえあれば艦内でも運筆を試していた。東郷大将は、筆が上達し、西郷吉二郎から誉められた言葉「仲五(平八郎の幼名)は字が巧か」、をいつまでも忘れなかった。