陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

487.東郷平八郎元帥海軍大将(27)両大将は碁盤を挟んで無言で対し何も言わず石を下すだけ

2015年07月24日 | 東郷平八郎元帥
 明治四十二年十二月、東郷平八郎大将は海軍軍令部長を免ぜられ、軍事参議官に補された。当時軍事参議官には、乃木希典陸軍大将もいた。

 明治四十四年四月、東郷大将と乃木大将は、イギリスのジョージ五世の戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみや・よりひとしんのう・皇族・フランスのブレスト海軍兵学校卒・防護巡洋艦「松島」分隊長・少佐・甲鉄艦「扶桑」副長・海軍大学校臨時講習員・中佐・海軍大学校選科学生・防護巡洋艦「千歳」副長・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・装甲巡洋艦「春日」艦長・少将・横須賀鎮守府艦隊司令官・中将・横須賀鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・大将・軍事参議官・死去・元帥・功三級・大勲位菊花章頸飾)と同妃に随行する機会が与えられた。

 そのとき、懸念されたのは、東郷大将も乃木大将も随行時は軍服でなく平服を着用しなければならなかったことである。東郷大将はとりたてて問題はなかったが、一徹な乃木大将は普段から軍服を離す事は無かったのである。

 当時乃木大将は、学習院長として常に学習院に起居し、就寝の時以外は軍服を解いたことがなかった。その乃木大将が平服を着るかどうか周囲の者たちは心配していた。

 そこで副官の吉田豊彦(よしだ・とよひこ)陸軍砲兵中佐(鹿児島・第三高等学校中退・陸士五恩賜・砲工学校・中尉・砲工学校高等科六期恩賜・陸軍要塞砲兵射撃学校・ドイツ留学・砲兵大尉・要塞砲兵射撃学校教官・日露戦争・砲兵少佐・陸軍大臣秘書官・アメリカ出張・陸軍重砲兵射撃学校教導大隊長・陸軍大臣秘書官・砲兵中佐・軍務局課員・イギリス出張・砲兵大佐・陸軍省兵器局銃砲課長・兵器局工政課長・重砲射撃学校校長・少将・陸軍省兵器局長・中将・陸軍造兵廠長官・陸軍技術本部長・大将・退役・日本製鉄取締役・満州電業社長・機械化国防協会長・勲一等旭日大綬章・功四級)が、乃木大将に次のように恐る恐る訊ねた。

 「院長閣下、渡英の際の服装の準備をいたしましょうか?」。

 すると、乃木大将はこともなげに、「いや、もう三越に注文してある。一切服は、東郷閣下が作られる通りのものを作るように頼んでおいたよ」と答えた。これには吉田中佐も意表をつかれたが、同時にほっとした。

 明治四十四年四月十二日、東伏見宮、東郷大将、乃木大将ら一行を乗せた日本郵船の客船「賀茂丸」(八五〇〇トン)は、横浜を出港し遠洋航路の旅に出た。

 当時六十四歳の東郷大将は六十二歳の乃木大将より二歳年長だった。このため、乃木大将はことごとく東郷大将に弟事し、その意見を聞き、それに従ったという。

 船内での晩さん会の時、東郷大将も大分杯をあげ、「お進みなさい」と言っては、周囲の人々に杯をすすめた。「もっと飲め」というのである。この言葉が東郷大将の口から出ると、人々は面白がった。たちまちこの言葉が船中での流行語になったという。

 「乃木と東郷」(戸川幸夫・読売新聞社)によると、四月二十日、「賀茂丸」は上海に寄港した。東郷大将と乃木大将は、上海居留地の邦人小学校に招かれて見学し、記念として楓の樹を植えた。そのあとで、職員一同と記念写真を撮影することになった。

 乃木大将は背広姿だったので、これで写真に写るのかと思うと、やや躊躇された。彼一人なら断るところだったが、東郷大将が、「乃木さん、ここへ」と自分の隣の椅子を示したので、乃木大将は仕方なく着席した。

 着席したものの、乃木大将は、恥ずかしくてたまらないので、うつむいてしまう。写真家が「恐れ入りますが、乃木閣下、もう少しお顔を……」と言っても眼を伏せる。

 あとで、東郷大将が冷やかすように「乃木さんな……眠っておりはせなんだなぁ……」と言った。

 上海から香港、そしてシンガポールまでは東郷大将と乃木大将はそれぞれ一室があてがわれていたが、シンガポールから先約の客が乗り込んで来たので、東郷大将と乃木大将は一室で起居することになった。

 二人の仲は極めてよく、また礼儀正しく、さすがに偉人の付き合いとはこんなものかと同船の人々を感嘆せしめた。

 両大将は時には両殿下の相手となってデッキゴルフに興じたりしたが、多くは室にこもって黙々と読書した。東郷大将は主として英書を、そして乃木大将は漢書を紐解いた。

 乃木大将の早起きは有名で、毎朝一等運転士が甲板に出る時には既に乃木大将は散歩していて、「お早う」と声をかけた。

 乃木大将と東郷大将は、よく二人並んで甲板を散歩したが、乃木大将は常に東郷大将を先輩として敬い、散歩するにもいつも東郷大将の左側を歩くことを忘れなかった。

 何事も東郷大将を先に立てて、東郷大将の意見を聞き、時には労わる様子さえ見えた。白髪白髭の両紳士が互いにゆずり合い、尊敬しあって親しむ様は美しいものであった。

 また、両大将はよく烏鷺を戦わせたが、どちらも上手というのではないが、乃木大将の方が少し上だった。こうした有様を特派員として「賀茂丸」に乗っていたロンドン発刊の「デーリー・エクスプレス」記者は、次のように報道した。

 「賀茂丸の航海中、東郷、乃木、両大将が一つづり音以上の言葉を発したのを聞いた者はいなかった。二人の無言は大事業によって真価を測るべき人士の無言なり。時折両大将を知れる乗客が天候などについて話しかけることがあったが、両大将は、うなずくか、首を振るかで一言も発しない」

 「二人はいつも離れることなく、日本の戦戯である囲碁を喫煙室で戦わしていたが、終日戦っていても両大将は碁盤を挟んで無言で対し何も言わず石を下すだけだった。時にはデッキゴルフを試みられる時もあったが、乃木大将が明らかに一言を発したのは、この時のみだった。それは大将が玉をはじきそこなった時である」。