陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

404.板倉光馬海軍少佐(4)始末書の書き方は板倉候補生に聞け

2013年12月18日 | 板倉光馬海軍少佐
 板倉候補生の席は候補生室の入口に一番近く、扉を背にしていたため、上衣を着ける暇がなかった。ガンルーム(士官次室・帆船時代、中・少尉の部屋に武器を格納したことに由来)に連行され、さんざん油を絞られたあげく、始末書を書かされる羽目になった。

 板倉候補生は遠洋航海中に始末書を八枚も書き、あまつさえ「始末書の書き方は板倉候補生に聞け」とまで言われて、勇名?をはせたのであるが、その創刊号が夜食のうどんだった。

 約二週間かかってインド洋を横断し、アラビア半島の南端、紅海の入口をやくするアデンに入港した。イギリス海軍の補給基地だった。

 四月四日スエズ運河に入った。四月十八日芸術の街、ギリシアのアテネ着。四月二十三日イタリアのナポリ入港。翌日ローマ見学。

 豊富な大理石を駆使した彫刻と、いたるところにある噴水は目を楽しませてくれた。だが、一歩裏通りに足を入れると、「シガレ、シガレ……」と煙草をせがむ浮浪児や乞食のむれに、板倉候補生は目をそむけたくなった。

 海軍兵学校のあるリボルノを経て、マルセイユに入港したのは五月一日だった。マルセイユでは、司令官の公式訪問や交歓行事が多く、十日あまり在泊したが、候補生のパリ見学はわずか二日間に過ぎなかった。

 車中で一夜を明かし、板倉候補生らがモンパルナスの駅に着いたのは午後七時過ぎだった。駅の食堂で軽い朝食をとり、最初に観光バスを停めたのはルーブル美術館だった。

 五月の明るい日差しがさんさんと降り注ぎ、マロニエの甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐった。蔦がまとわりついた古色蒼然たる建物の中に、古今東西の名画や彫刻が展示されているかと思うと、板倉候補生は早くも胸の高まりを覚えた。

 しかし、見学時間はわずかな時間だった。このあと、エッフェル塔、ヴェルサイユ宮殿と、分刻みのスケジュールが組まれていた。板倉候補生は、このときほど、司令部職員の石頭ぶりがうらめしく思われたことはなかった。

 その矢先に、思いがけない救世主が現れた。クラスメートの奥山正一(後に海軍パイロット、殉職)だった。板倉候補生はミレーの「晩鐘」の複写は何回も見たが、実物を鑑賞するのは初めてだった。

 ミレーは敬虔なカトリック信者であり、農民の出身だけに、現実が生気を失わぬまま抽象に転換する筆致には、ひきずりこまれるような迫力があった。

 板倉候補生は画面に釘づけされたまま立ち去りかねていたとき、次に予定されているエッフェル塔に向かうべく、集合の合図が伝えられた。

 その時、奥山が、「パリの屋根を見てもつまらん」と言って、板倉候補生を便所に連れ込み、候補生のバスを見送った。それから、閉館を告げる鐘の音がセーヌ河畔にこだまするまで、二度と見ることがないであろう名画や彫刻を、二人は心ゆくまで鑑賞した。

 さて、それから、見学のあとは、大使の招宴が予定されていたが、パリの夜は、未知の世界を求める旅人の心をあおる、妖しい魅惑に満ちていた。

 ゆきがかりとはいえ、「パリに遊ぶものはムーランルージュへ……」のキャッチフレーズにひかれた。板倉候補生と奥山候補生は、シャンゼリゼ通りのキャッフェで腹ごしらえをしてから、ボーイに、ムーランルージュへの道順をたずねたところ、両手を広げ、肩をすくめて立ち去った。

 フランスでは英語が通じないことにもよるが、チップをやらなかったからだった。あとで、気が付いたが、駅員やお巡りさんまでがチップを出さないとそっぽを向くには驚いた。

 なにはともあれ、通行手形を払いながら、目的地にたどり着いたのは夜も更けてからだった。ムーランルージュがどんなところか、おおよその見当はつけていたが、一歩踏み込んだ瞬間、二人はあっと驚いた。

 まるで、女護島に漂着したロビンソン・クルーソーの現代版だった。むらがる美女は一糸もまとっていなかった。さらに、彼女たちが演ずる秘戯は浅草の花電車など足元にも及ばなかった。

 宿舎のドーニャホテルに二人が帰着したのは、門限をとっくに過ぎていた。ホテルでときならぬ騒動がもちあがっているとはつゆしらず……。

 「直ちにパリ警察に捜索願を出すべきだ……」「とんでもない。それこそ帝国海軍の恥辱である……」けんけんがくがくの議論が沸騰しているさなかに帰ったから、目も当てられなかった。

 二人は木っ端微塵にぶん殴られた挙句、始末書を書かされた。