陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

402.板倉光馬海軍少佐(2)君の成績では、宮崎の高等農林が分相応というものだ

2013年12月05日 | 板倉光馬海軍少佐
 その翌年、学年の担当である杉田宇内先生宅を訪ねて、板倉が相談したところ、「なに海軍兵学校? 君が海兵を志望するなんて……まさか、本気ではないだろうねェ」と言った。

 板倉が「本気です」と答えると、「本気だと!」と唖然としながらも、憐れむように「君の成績では、宮崎の高等農林が分相応というものだ。高望みもほどほどにしたまえ」と言った。

 杉田先生は図画の主任で、板倉の絵の素質を知っていて、以前は上野の美術学校の受験を勧めてくれたことがあったが、父の反対で駄目になったことがあった。

 だが、杉田先生は、今回は板倉の熱意に押されて、しぶしぶながらも、海軍兵学校受験の手続きを引き受けてくれた。

 それからというものは、板倉は死に物狂いで勉強した。海軍兵学校の試験は一月なかばだった。あと五ヶ月足らずだった。父は海兵受験に反対しなかった。

 放課後は閉館するまで図書館に入り浸り、家では食事もそこそこにして、夜を徹することも珍しくなかった。父は筑豊の炭坑に手を出して、ほとんど家に帰らなかったので、家でも勉強ができたのだ。

 相次ぐ事業の不振で、板倉の家は赤貧洗うが如き有様だった。そのため母は針仕事や実家からの仕送りで家計をやりくりしていたが、愚痴一つこぼさなかったばかりか、暗い顔を見せたことがなかった。

 生血が滴るような四ヶ月が過ぎて、苦闘の成果を試みる日が近づいたある夜、例年になく厳しい寒中、密かに水垢離(みずごり=水行)をとる母の姿を垣間見て、板倉は思わず合掌した。

 板倉は子を思う母親の愛情が切ないほどに感じられ、たとえ石に齧(かじ)り付いても試験に合格しなければならないと心に決めた。

 試験の前日、夜半に家を出た。何がしの金を押し付ける母の手をかたくなに拒み、筆記用具と握り飯を抱えて夜道を急いだ。

 小倉から福岡までの六十余キロ、玄界灘から吹き付ける北風が、いやが上にも闘志をかき立てた。宿は寺と決めていた。別に当てはなかったが、博多の材木町は寺が多いと聞いていた。

 懐中無一文だった。最初に目についた山門に「安国寺」と墨書した扁額がかかっていた。庭の白砂は鮮やかに掃き清められ、うっそうと茂る松の喬木が由緒ありげに見受けられた。

 玄関先で案内を乞うと、荒法師のような伴僧から、にべもなく断られた。「頼む」「帰れ」と押し問答をしているところに、眉雪の老僧が現れ、乞われるままに事情を話したところ、しばしの間、鋭い眼光で見つめられえたが、「お泊めしよう」といって、客室をあてがわれた。

 さすがに板倉も、このときばかりは、地獄で仏にあったように嬉しかった。安国寺は九州の末寺を統べる名刹だったのである。

 試験場の福岡師範学校に集まった海軍兵学校の受験者は二百名を越えていた。いずれも秀才らしく、自身ありげだった。

 初日の身体検査で三分の一近くがふるいにかけられた。学科試験も一科目ごとにはねられ、二日目の数学と英語で、大量の失格者が出た。

 今年の試験科目は英語、数学、国漢、歴史に絞られ、暗記ものが省かれた代わりに、作文が加えられた。

 三日目、控え室に貼り出された受験者の氏名は、あらかた赤線が引かれ、不要となった写真がうず高く積まれていた。試験場はまるで閑古鳥が鳴きそうだった。

 板倉は苦手の作文が気がかりであったが、「我国体の清華と吾人の覚悟」という題名を見て、案じたよりも筆が軽かった。

 何とか板倉は最終日まで残ることができたが、午前のメンタルテストで、九仞の功を一簣に欠いてしまった。

 「九仞の功を一簣に欠(虧)く」は、「きゅうじんのこうをいっきにかく」と読み、「高い山を築くのに、最後のもっこ一杯の土を盛らないために、山が完成しない」という意味。長い間の苦労や努力も、最後の僅かな失敗から不成功に終わること。中国の「書経」にあることわざ。

 仞(じん)は中国古代の長さの単位で、九仞は高さが非常に高いこと。一簣(いっき)はもっこに一杯の分量のことで、僅かな量のたとえ。