陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

403.板倉光馬海軍少佐(3)では伺いますが、試験官は西郷隆盛を軽蔑されますか?

2013年12月12日 | 板倉光馬海軍少佐
 午前のメンタルテストは、変てこな問題ばかりで、板倉はてんで歯が立たなかった。さらに、午後の口頭試問で馬脚をあらわした。

 「尊敬する人物は……」ときかれ、まごついた。読書に縁がなかったこともあって、とっさに口をついて出てこなかった。尊敬する人物なんて考えてもいなかったので、苦し紛れに「西郷隆盛」と口走った。

 ところが、「西郷は、維新の大業をなした功労者であるが、私情にかられて西南の役を起こし、賊名をきせられた。そのような人物を尊敬するか?」と試験官に言われた。

 返す言葉がなかったので、板倉はえェままよ、とばかり、逆に食ってかかった。「では伺いますが、試験官は西郷隆盛を軽蔑されますか?」。

 苦笑した試験官は、矛先をかわすように、「兵学校を志望した動機はなにか?」と質問した。メンタルテストで失敗し、さらに口頭試問でとちった以上、もはやこれまでと、板倉は観念し、関門海峡を通過する連合艦隊の躍動する美しさに魅せられたことから、宮崎の高等農林を勧められたいきさつまで、洗いざらい打ち明けてしまった。

 板倉はその日のうちに福岡を立ったが、帰る足取りは鉛のように重かった。二度と博多の土を踏むことはあるまいと思い、安国寺の碧海老師に礼を述べたが、「いい薬になったようじゃのおー。来年またおいで」と言って、大きな握り飯の包みを渡されたときは、無性に涙が溢れてきた。

 それから一ヶ月後、一通の電報を受け取った。「カイグンヘイガッコウセイトニサイヨウヨテイ イインチョウ」。板倉は夢ではないかと狂喜した。

 そして、このときほど嬉しそうに、「よかった! よかったねぇ……」と、涙を流して喜んでくれた母の顔を、いまだかって見たことがなかった。

 昭和五年四月一日、第六十一期生として板倉光馬は江田島の海軍兵学校に入校した。暖冬の年で、校庭の桜花は爛漫と咲き誇っていた。

 入校時の校長は、部内の声望を一身に集めた永野修身(ながの・おさみ)中将(高知・海兵二八次席・海大八・米国ハーバード大学留学・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・少将・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン会議全権・海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍令部総長・元帥・戦犯・獄中で死去・正三位・勲一等・功五級)だった。

 永野校長は、自啓自発をモットーとするダルトン・プランを唱道し、さらに教育学、心理学、論理学、哲学から美学まで取り入れた。それで、在校期間が八ヶ月延長されて、海軍兵学校は四学年制になった。

 兵学校の鉄拳制裁の是非について、問題がなかったわけではない。度が過ぎると弊害を伴うことも事実だった。

 鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)中将(大阪・海兵一四・海大一・大佐・海軍水雷学校長・少将・第二艦隊司令官・人事局長・海軍次官・中将・練習艦隊司令官・海軍兵学校長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・海軍軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・2.26事件で重症・枢密院議長・首相・枢密院議長・従一位・勲一等・功三級・男爵)が校長のとき、鉄拳制裁を厳禁した。

 だが、いつしか復活して、板倉光馬が生徒のときが鉄拳制裁の最盛期だった。なにごとによらず要領が悪く動作が鈍かった板倉はよく殴られた。

 昭和八年十一月十八日板倉光馬は、奇しくも二十二歳の誕生日に、海軍兵学校(六一期)を卒業し、少尉候補生に任命された。

 昭和九年二月十五日、横須賀港を、練習艦「浅間」「磐手」(一等巡洋艦)に分乗し遠洋航海に出発した。板倉候補生は「磐手」に乗組んだ。

 シンガポールを出港し、マラッカ海峡を抜けてインド洋に入ると、すでにモンスーンの季節で、偏西風が赤道直下の高温多湿を運び、ウネリが高く動揺が激しいので、舷窓を閉じた候補生室は蒸し風呂のように暑苦しかった。

 しかもその日の夜食が熱いうどんだった。内地を発つ前に厳しく躾けられたテーブルマナーなどかまっていられなかった。

 上衣や下着を脱ぎ、上半身は裸のままうどんをすすっていた最中に、急にざわつき始めた。おやっと思った直後、「裸で夜食をとるとは何事だ!」。頭上から指導官の怒声が降ってきた。