陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

347.辻政信陸軍大佐(7)ノモンハン慰霊祭には、衆の面前で私を罵倒されました

2012年11月16日 | 辻政信陸軍大佐
 これに対し、「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、当時連隊長だった、須見新一郎氏の手記が、昭和三十年八月七日号「週刊読売」に次のように記されている。

 「辻氏一流の筆法でこっぴどく、たたきのめされている。第一回の戦闘で安達大隊は、私の指揮下から切り離され、小松原兵団長の直接指揮に入ったのであった」

 「私はゆうゆうとビールをのんでいたのではなかった。渇病患者の出る戦闘の毎日のうち、何よりもほしいのは水だ」

 「たしか、七月四日の午後、連隊の書記をしていた中野軍曹が、ハルハ河の水を入れたビールびんをもってきて食事をすすめていったことがある。一口、ビールびんに口をつけて、あとは砂地に立てておいたものだった」。

 以上の須見新一郎氏の手記の原型と見られるものが、戦時中の昭和十九年七月十五日発行の須見大佐回顧録「実戦寸描」に次のように記されている。

 「生き残った書記の中野軍曹が三上伝令と哈爾哈(ハルハ)河の水を入れたビール瓶を添へて予に食事を勧めて呉れた」

 「自分は無言で之を食べた。今や何を語るべき……偶然にも生き残った一本松は唯黙々として部隊の指揮に務めて居た」。

 以上のことから、当時の差し迫った戦況や、須見大佐が下戸であったことなどから、それが、ビールではなく、ハルハ河の水であったと見るのが妥当だろう。

 辻政信参謀自身、時には水筒に酒をつめていたといわれていることから、今回の事件は辻参謀の僻目のさせる邪推だったのではないだろうか。

 ところで、辻政信氏の「ノモンハン」(亜東書房・昭和二十五年)を読んだ当時の当番兵、外崎善太郎氏が、昭和三十五年三月、生き証人としてビール云々は事実無根だと抗議の手紙を辻氏に出している。

 だが、須見大佐の手記には、外崎当番兵の名前は出てこない。そこで「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)の著者、田々宮英太郎氏は青森県に健在な外崎氏に照会の手紙を出した。すると、次のような回答が来た。

 「中野軍曹のこと、連隊付書記軍曹で、私にハルハ河に行って水を汲んで来るよう命じられました。途中ビールの空き瓶をひろい、河の水を汲み中野軍曹の塹壕まで持って来て、二人でかんぱんとビール瓶の水を連隊長の塹壕まで持って置いて来ました」

 「然し、三日までの当番兵(三上伍勤上等兵)が戦死し四日から私が当番兵となったゆえ、この事実は中野軍曹しか知らなかったと思う。但し中野軍曹は、八月二十七日夕景、七八〇高地の戦闘で約五メートル離れた場所で戦死しました」

 「なぜ空き瓶があったか。それにガソリンを入れ敵戦車に投げつける火炎瓶をつくるためでした。サイダー瓶が適当でしたが、ビール瓶も使ったのです」。

 昭和三十五年四月十九日付けで、外崎氏の抗議に対する辻政信氏の返書が、送られてきた。便箋四枚にペン字で書かれた全文の内容は次のように記されていた。

 「御手紙を拝見しました。旧上官の須見さんを思わるる御純情に心を打たれました。私の著書の中にビール云々と書いた事を須見さんは今でも怒られ、去年末のノモンハン慰霊祭には、衆の面前で私を罵倒されました」

 「私は弁解しようとは思いませんが、当時安達大隊が重囲の中にあり連隊長は当然これを救出しなければなりませんのに、見捨てられる様な気配がありましたので、当時連隊本部にいた他の大隊長と話した処、連隊長がその気がない、陣中なのにビールを飲んでいると非常に憤慨していたのを耳にしたのです」

 「あのとき飲んでおられたのがビールでなかったとは、あなたの手紙で判りましたが、当時の大隊長は連隊長の安達大隊に対するやり方に怒っておられたのは事実でした」

 「須見さんは退役なさったのは、私がやったのだと感じておられるようですが、それは誤解です。然し特務機関長時代の色々の事が中央部で問題になったまでです。今さら二十年前の事を荒立てる必要もありませんが」