士官学校事件に連座した村中孝次大尉、磯部浅一一等主計が「粛軍に関する意見書」を理由に免官されたのは、昭和十年八月二日である。
これに憤慨したのが当時、撫順にあった満州独立守備歩兵第六大隊の黒崎貞明中尉(陸士四五・陸大五五・軍務局課員・中佐)だった。
村中大尉とはただならぬ先輩同志として結ばれていた。士官学校では隣の区隊長だったが、革新運動の手ほどきを受けたのが村中大尉だった。
黒崎中尉は、在満革新将校の中心的な存在になっていた。「村中、磯部が免官なら、元凶の辻こそ免官になるべきだ」と憤慨が収まらなかった。
程なく満州に現れたのが、水戸二連隊付の辻政信大尉で、十名ばかりの一行にまじっていた。この機を逸してはならぬと考えたのが黒崎中尉だった。
「事件を捏造した張本人がのさばるようでは、革新将校は犠牲にされるばかりだ。やがて奴らが軍の中枢に座った日には、日本の革新はどうなるんだ」。こう思いつめると、辻と刺し違える覚悟を決めた。
撫順の一流料亭「近江亭」の夜は、弦歌のさざめきで賑わっていた。その玄関口へ堂々と現れたのが一人の青年将校である。帯剣のほかに、白鞘の短剣も握っている。
その青年将校こそ、黒崎中尉だった。折から廊下に現れたのが、久門有文大尉(陸士三六・陸大四三恩賜・大本営作戦課航空班長・殉職・大佐)だった。当時軍務局課員だった久門大尉は辻大尉の親友で満州へ同行していた。
久門大尉が、トイレに行くためにたまたま通りかかり、黒崎中尉は、やにわに組み敷かれてしまった。腕力にかけては久門大尉のほうがはるかに優っていた。
「ここでは辻を刺したって、どうにもなりゃせんよ。日本の将来を思うなら、辻よりも偉くなれ」と久門大尉は諭した。
この一件は、当然、辻大尉の耳に入った。以来、辻大尉と、黒崎中尉の間には対決の情念が渦巻くこととなった。
昭和十四年五月、満州国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、日本軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件が起きた。
当時、辻政信少佐は関東軍第一課(作戦)の作戦参謀だった。上司の作戦主任は、服部卓四郎中佐(山形・陸士三四・陸大四二恩賜・フランス駐在・中佐・関東軍参謀・陸大教官・参謀本部作戦課長・歩兵第六五連隊長・戦後GHQ勤務・復員局資料整理課長)だった。
「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、ノモンハン事件勃発後の七月三日午後、ハルハ河左岸のハル高地に、第二三師団長・小松原道太郎中将(神奈川・陸士一八・陸大二七・ソ連駐在武官・少将・近衛歩兵第一旅団長・中将・第二三師団長・予備役・病死)と、その幕僚が陣取っていた。
また、関東軍参謀副長・矢野音三郎少将(山口・陸士二二・陸大三三恩賜・歩兵第四九連隊長・少将・関東軍参謀副長・北支那派遣憲兵隊司令官・中将・第二六師団長・陸軍公主嶺学校長・予備役)、服部中佐、辻政信少佐らも小松原中将とともにいた。
協議の結果、三日夜暗を利用して、第二三師団主力を、ハルハ河右岸地区に後退させようということになった。小松原師団長は同意した。
小松原師団長は師団主力を後退させるため、須見連隊(歩兵第二六連隊)に白銀チボ台地に留まらせ、主力の戦場離脱援護に当たらせる処置をとった。
七月四日払暁までに師団主力の大部分が後退した。須見連隊と他の連隊の一部が左岸に踏みとどまっていた。
この日の昼、連隊長・須見新一郎大佐(長野・陸士二五次席・陸大三四・歩兵第二六連隊長・予備役)が昼食を取っている時、偶然、辻政信少佐が通りかかった。
辻政信少佐は、連隊長・須見新一郎大佐が、前線で、昼食時にビールを飲んでいるのを見て、激怒し、階級を忘れて、須見大佐を怒鳴りつけた。
須見大佐は、ビールではなく、ハルハ河の水をビールの空き瓶に入れたものだと、反論したが、須見大佐は、解任、予備役となった。これが「須見連隊長ビール事件」である。
これに憤慨したのが当時、撫順にあった満州独立守備歩兵第六大隊の黒崎貞明中尉(陸士四五・陸大五五・軍務局課員・中佐)だった。
村中大尉とはただならぬ先輩同志として結ばれていた。士官学校では隣の区隊長だったが、革新運動の手ほどきを受けたのが村中大尉だった。
黒崎中尉は、在満革新将校の中心的な存在になっていた。「村中、磯部が免官なら、元凶の辻こそ免官になるべきだ」と憤慨が収まらなかった。
程なく満州に現れたのが、水戸二連隊付の辻政信大尉で、十名ばかりの一行にまじっていた。この機を逸してはならぬと考えたのが黒崎中尉だった。
「事件を捏造した張本人がのさばるようでは、革新将校は犠牲にされるばかりだ。やがて奴らが軍の中枢に座った日には、日本の革新はどうなるんだ」。こう思いつめると、辻と刺し違える覚悟を決めた。
撫順の一流料亭「近江亭」の夜は、弦歌のさざめきで賑わっていた。その玄関口へ堂々と現れたのが一人の青年将校である。帯剣のほかに、白鞘の短剣も握っている。
その青年将校こそ、黒崎中尉だった。折から廊下に現れたのが、久門有文大尉(陸士三六・陸大四三恩賜・大本営作戦課航空班長・殉職・大佐)だった。当時軍務局課員だった久門大尉は辻大尉の親友で満州へ同行していた。
久門大尉が、トイレに行くためにたまたま通りかかり、黒崎中尉は、やにわに組み敷かれてしまった。腕力にかけては久門大尉のほうがはるかに優っていた。
「ここでは辻を刺したって、どうにもなりゃせんよ。日本の将来を思うなら、辻よりも偉くなれ」と久門大尉は諭した。
この一件は、当然、辻大尉の耳に入った。以来、辻大尉と、黒崎中尉の間には対決の情念が渦巻くこととなった。
昭和十四年五月、満州国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、日本軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件が起きた。
当時、辻政信少佐は関東軍第一課(作戦)の作戦参謀だった。上司の作戦主任は、服部卓四郎中佐(山形・陸士三四・陸大四二恩賜・フランス駐在・中佐・関東軍参謀・陸大教官・参謀本部作戦課長・歩兵第六五連隊長・戦後GHQ勤務・復員局資料整理課長)だった。
「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、ノモンハン事件勃発後の七月三日午後、ハルハ河左岸のハル高地に、第二三師団長・小松原道太郎中将(神奈川・陸士一八・陸大二七・ソ連駐在武官・少将・近衛歩兵第一旅団長・中将・第二三師団長・予備役・病死)と、その幕僚が陣取っていた。
また、関東軍参謀副長・矢野音三郎少将(山口・陸士二二・陸大三三恩賜・歩兵第四九連隊長・少将・関東軍参謀副長・北支那派遣憲兵隊司令官・中将・第二六師団長・陸軍公主嶺学校長・予備役)、服部中佐、辻政信少佐らも小松原中将とともにいた。
協議の結果、三日夜暗を利用して、第二三師団主力を、ハルハ河右岸地区に後退させようということになった。小松原師団長は同意した。
小松原師団長は師団主力を後退させるため、須見連隊(歩兵第二六連隊)に白銀チボ台地に留まらせ、主力の戦場離脱援護に当たらせる処置をとった。
七月四日払暁までに師団主力の大部分が後退した。須見連隊と他の連隊の一部が左岸に踏みとどまっていた。
この日の昼、連隊長・須見新一郎大佐(長野・陸士二五次席・陸大三四・歩兵第二六連隊長・予備役)が昼食を取っている時、偶然、辻政信少佐が通りかかった。
辻政信少佐は、連隊長・須見新一郎大佐が、前線で、昼食時にビールを飲んでいるのを見て、激怒し、階級を忘れて、須見大佐を怒鳴りつけた。
須見大佐は、ビールではなく、ハルハ河の水をビールの空き瓶に入れたものだと、反論したが、須見大佐は、解任、予備役となった。これが「須見連隊長ビール事件」である。