陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

348.辻政信陸軍大佐(8)辻とワシの曲直を明らかにしなければ死ぬにも死ねない

2012年11月23日 | 辻政信陸軍大佐
 辻政信氏の返書の続きは次の通り。

 「慰霊祭の席上では、私はビールの件は取り消しておきました。軍旗の件も、軍司令部ではカンカンに怒ったものでした。以上があなたの真面目なお手紙に対する私の回答です」

 「但しこの御手紙を読んで、当時の当番の貴殿にかくも慕われている須見さんを見ると、私の過去の観察を修正しなければならぬと考えています」

 「別に個人的な感情の問題ではありません。不悪御諒察下されたし。右不取敢御礼傍々御返事申し上げます」。

 当時の辻政信は参議院議員で、戦犯的な過去にもかかわらず、旧軍人に対し勢威をふるっていた。返書の内容も、それを反映していかにも高姿勢である。

 なお、「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、戦後、著者の堀江芳孝氏は、元連隊長の須見新一郎氏から「ぜひ自分が経営する三楽荘(温泉ホテル)に遊びに来てくれ」とのことなので、三楽荘に旧部下の別所氏とともに出かけた。

 須見氏はまず、真崎甚三郎大将の話を始めた。そのあと、堀江氏が「須見さん、この辺で、歩二の昔話でも聞かせていただきたいですね」と言うと、「ノモンハンの話をしたい」と言い出し、須見氏は「ビール事件」のことを次のように話した。

 自分はあんなメチャクチャな戦で、しかも辻という悪漢にめぐり合わせたせいで、現場でクビにされたもので、今なお闘争中である。

 隣の敵から蹂躙された某連隊が後退中だが、敵の追撃が停止したので、兵数名と食事を取っていた。当番兵が川の水をビールビンに汲んで来たので、その水を飲んでいた。

 ちょうどその時辻参謀が通りかかった。辻は「この戦況下に連隊長がビールを傾けつつ食事とは何ごとですか」と言うから「これは川の水だよ」と答えると、辻は去っていった。

 辻は最寄の電信所で電報を打ちやがったのだ。東京宛てか新京の関東軍司令部宛てか分からんが、早速関東軍司令部に出頭せよとの電報が来て、関東軍司令部付、ついで予備役に編入されてしまったのだ。

 ワシだって病気してしばらく休校し陸士卒業の時は、青木重政が一番となり、ワシが二番になったが、ワシだって恩賜だ。

 大佐で現地作戦中の連隊長が即時のクビになるなんて馬鹿な話は考えられない。あんな悪党の電報を受けて交戦中の連隊長を調査もせずにクビにするなんて中央部もなっていないと思うが、とにかく何か自分よりも階級の高い者の弱点を見つけて上の方に報告し、手前の点数を上げようとする自己顕示の欲望に燃えた奴だったね……。

 以上が、須見新一郎氏が堀江氏に語った「ビール事件」の顛末だった。

 須見氏は当時の当番兵の他、一緒に食事をしていた兵士たちの証言をまとめて印刷し、これを旧陸軍と一般社会に配布し、「辻とワシの曲直を明らかにしなければ死ぬにも死ねない」と意気込んでいた。

 須見氏はさらにノモンハン事件と辻政信について、次のように語った。

 何しろ制空権をアチラが持っていて、砲兵と戦車を数え切れないほど駆使し、歩兵だってアチラが五倍も六倍も多いのだから、あっという間に日本軍は分断されたのだ。

 所謂圧倒殲滅された訳だ。捕虜が出るのは当然の帰結だ。逆に言えば日本側の判断が悪く作戦計画がなっていなかったのだ。

 どういうわけか実情は分からなかったが、モスクワの休戦交渉がスピードを掲げていたことは確かのようだ。そしてその休戦交渉の結果、多数の将兵がアチラ側から帰されて来たのだ。

 辻は将校が入院している病院に手榴弾を持ち込み、武士の恥をそそげと自殺を強要したのだ。手前の判断と作戦計画の拙劣を棚に上げて、不可抗力に陥った者、特に重傷乃至人事不省で捕まった者に自殺を強要するなどということは常人にはできない。本当に悪質な奴だ。

 「ノモンハン秘史」(辻正信・毎日ワンズ)によると、七月初旬、ハルハ河右岸し進出しているソ連軍に安岡支隊が攻撃を行った。だが、攻撃は挫折し、七月十一日以降は敵と睨み合ったまま、滞陣状態に陥った。