陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

181.東條英機陸軍大将(1)総理大臣にぶん殴られた陸軍少佐は、天下広しといえども俺くらいのものだ

2009年09月11日 | 東條英機陸軍大将
 「東條英機・その昭和史」(楳本捨三・秀英書房)によると、山田玉哉陸軍少佐は、夜遅く、東條英機首相から「すぐ来い」という命令を受けた。

 山田少佐は、東條英機の妹の子どもで、東條英機の甥である。山田少佐は何事であろうかと、いそいで軍服に着替え車を飛ばし、首相官邸に向った。

 首相官邸に着くと、深夜の閣議に出かける東條首相と玄関でバッタリ出会った。

 「何かご用でしょうか」と山田少佐は、伯父でも相手は総理大臣であるから、不動の姿勢で尋ねた。

 すると東條首相は何も言わず、「このバカ者め!」と叫ぶと、山田少佐の頬を吹き飛ぶほど強く殴った。

 山田少佐もこれにはおどろいた。

 「何事ですか! いやしくも、自分も陸軍少佐です。何もいわずにぶんなぐるとは」。いかに、総理、陸軍大臣でも、人をバカにしていると思った。

 すると東條首相は「なんだと? いやしくも陸軍少佐だ? このバカ者ッ! なぜなぐられたか、なぐられた理由も思い当たらぬほど、貴様はあほうかッ」と言った。

 山田少佐は、殴られる理由など思い当たらないので、「わかりませんッ」と言い返した。陸軍少尉だってこんな無法は許されていいはずはない。それに赤松秘書官らの前で殴られて陸軍少佐として恥ずかしかった。

 東條首相は「貴様、妹の家に行って何をやった」と言った。

 それを聞いて、山田少佐はシュンとなった。アレがばれたのだ。

 その二、三日前、東條首相の妹、山田少佐の伯母(佐藤満鉄理事の妻)の家を訪ねたところ、伯母は留守だった。

 山田少佐はいつもの例で、上り込むと、ビールとうなぎ丼をとらせて、一杯やりながら、女中の手をちょっと握った。それだけのことで、キス一つしたのではなかった。

 たまたま暇な時間に、女性に冗談を言ったり、手を握るくらいは、山田少佐は罪悪とは考えていなかった。だが東條首相は、女の手を握るとは何たる不謹慎、武士の風上にも置けぬ奴と思っていたのである。

 山田少佐は後に「総理大臣に首相官邸でぶん殴られた陸軍少佐は、天下広しといえども俺くらいのものだ」と述懐している。

 だが、山田少佐はなぐられた腹たち紛れか、あるいは伯父という気安さも手伝ってか、そのとき、「どの分ですか?」と反問したという。東条首相はますます激昂し怒り狂ったという。

 東條英機の子供は、長男は東條英隆、次男は輝雄、三男敏夫、長女光枝、次女満喜枝、三女幸枝、四女君枝がいる。

 山田少佐がまだ少尉の頃、東條は長男の英隆と山田少尉を、上野の精養軒へ洋食を食べに連れて行ってくれた。一流のレストランなので山田少尉は嬉しかった。

 ところが、さて、メニューがきて、何を食うか、何を飲むか、いっさいがっさい、東條はドイツ語でやり始めた。山田少尉はがっかりした。せめて飯を食う時くらい楽しく食べさせてくれ、と恨めしく思った。東條はドイツ語がどのくらい上達したかを試していたのだ。

 山田少佐が東條からもらったものは、後にも先にも、チョークの切れっぱし、たった一本だった。東條は肉親に物をやるのは、そいつを駄目にすると思っていた。

 山田少佐(後に中佐)によれば、東條は、「カミソリ東條」と呼ばれていたが、東條は「カミソリ」という言葉が大きらいだった。

 「俺はカミソリのように切れもせず、頭も良くはない。努力だ」と、いつも言っていた。「カミソリ」と言ったために、東條が怒って一生口をきかなくなった男もいたそうである。

<東條英機陸軍大将プロフィル>

明治十七年七月三十日、東京市青山生まれ。父東條英教(陸軍中将)と母千歳の三男。長男、次男は夭折しており、実質的に長男として扱われた。
明治三十二年(十六歳)九月東京陸軍幼年学校(第三期)入学。
明治三十五年(十九歳)九月陸軍中央幼年学校(第十七期)入学、卒業成績は最後から三番目と言われている。
明治三十七年(二十一歳)六月陸軍士官学校(第十七期)入学。
明治三十八年(二十二歳)三月陸軍士官学校(第十七期)卒業、卒業成績は三百六十人中十番。四月歩兵少尉、近衛歩兵大三連隊。
明治四十年(二十四歳)十二月歩兵中尉。
明治四十二年(二十六歳)四月伊藤勝子と結婚。
大正元年(二十九歳)十二月陸軍大学校(二十七期)入学。
大正四年(三十二歳)六月歩兵大尉、十二月陸軍大学校卒業、卒業成績は五十六名中十一番。
大正五年(三十三歳)八月陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官。
大正八年(三十六歳)七月歩兵第四十八連隊、八月スイス派遣。
大正九年(三十七歳)八月歩兵少佐、ドイツ国駐在。
大正十一年(三十九歳)十一月陸軍大学校兵学教官。
大正十三年(四十一歳)八月歩兵中佐。
昭和三年(四十五歳)三月陸軍省整備局動員課長、八月歩兵大佐。
昭和四年(四十六歳)八月歩兵第一連隊長。
昭和六年(四十八歳)八月参謀本部第一課長。
昭和八年(五十歳)三月陸軍少将、十一月陸軍省軍事調査部長。
昭和九年(五十一歳)三月陸軍士官学校幹事、八月歩兵第二十四旅団長。
昭和十年(五十二歳)九月関東軍憲兵隊司令官。
昭和十一年(五十三歳)十二月陸軍中将。
昭和十二年(五十四歳)三月関東軍参謀長。
昭和十三年(五十五歳)五月陸軍次官、十二月陸軍航空総監。
昭和十五年(五十七歳)七月陸軍大臣。
昭和十六年(五十八歳)十月内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣、陸軍大将、現役復帰。
昭和十九年(五十九歳)二月兼参謀総長、七月内閣総理大臣辞職、予備役。
昭和二十年(六十歳)九月十一日世田谷区の自宅で拳銃自殺を図るが失敗。
昭和二十三年十一月十二日東京裁判でA級戦犯として絞首刑の判決を受ける。十二月二十三日巣鴨拘置所内で刑死、享年六十四歳。