当時、世間でよく言われた「二キ三スケ」とは、東條英機、星野直樹、松岡洋右、鮎川義介、岸信介のことだった。
東條は政治家や官僚の仲間が全くいなかった。満州で関東軍参謀長時代に知り合ったこれらの人物以外にはいなかったのである。東條はこのような連中を私宅に引っ張ってきた。
これらの連中は、山田中佐の仲間では至極評判の悪い連中だった。
山田中佐は東條首相に「世間の評判を知っていますか。あんな連中を使って、将来ロクなことになりませんぞ」と言った。
すると東條首相は「だまっとれ!子供になにが分かる」と落雷した。陸軍中佐をつかまえて、子供あつかいだった。そのあと東條首相は「嫁さんもらって、すぐ離縁できるか」と言ったという。
昭和九年、東條は陸軍少将で陸軍士官学校の幹事だった。「東條英機・その昭和史」(楳本捨三・秀英書房)によると、東條の仕事に対する性格を示す話がある。
幹事が士官学校生徒の講評をするのは当然のことだ。ところが東條少将はすこし違っていた。士官学校には馬が千五百頭余り飼われていた。
東條少将は、生徒の講評だけでなく、いちいち検査して、馬の講評を下した。「生徒の講評は、教官、幹事の義務かも知れないが、馬の検査の講評をやったのは東條くらいのものであろう」と言われている。
昭和九年八月に東條英機は歩兵第二十四旅団長に補されたが、これは明らかに左遷だった。皇道派の幕僚たちは、頭角を現してきた東條をなんとかして予備役に編入させようと画策していた。
だが、その頃、演習において示した東條のすぐれた指揮能力のため、それもできず、当時、人事局長だった同期の後宮淳少将が、昭和十年九月二十一日付で、東條を関東軍憲兵隊司令官に栄転させた。
東條が首にならず、最終的に総理大臣までに栄達させる機会を与えたのは後宮淳少将(終戦時大将)ということになる。
だが、後年、後宮淳大将は、「総理大臣になんかなるからバカじゃ」と言ったという。それは東條に対する友情の言葉だった。
太平洋戦争勃発前に、東條英機と山本五十六が、一番、対米戦争を回避したがっていたということは、今では誰もが知っている。貧乏くじを引いたのは東條英機だった。あの時点で、誰が総理大臣になっても、戦争を避けることは不可能だった。
昭和十三年五月、東條英機中将は、板垣征四郎陸軍大臣(陸士一六・陸大二八)の陸軍次官に就任した。「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、梅津美治郎次官(陸士一五首席・陸大二三首席)が東條中将を後任の次官に推挙したのだった。
今回の陸軍大臣の異動は、杉山元陸相(陸士一二・陸大二二)が北支出張中に、近衛文麿首相が、陸相を急に罷免し、後任に板垣中将を指名したことによるものだった。ところが、陸軍大臣より、東條次官の発表のほうが早く行われたので、問題となった。
東條中将が次官に就任して何日か経った頃、重臣の平沼騏一郎男爵が閣議後に板垣陸相に飯野吉三郎に機密費を出してやってくれと頼んだ。
飯野吉三郎は平沼男爵が信用している男で、平素平沼男爵が援助を与えていた。板垣陸相は平沼男爵の申し出を承諾して、東條次官にこのことを申し付けた。陸軍における機密費の取り扱いは次官の仕事だった。
だが、東條次官はこのようなことには大不賛成であった。しかし、陸相が一応承諾されているので、五万円を秘書官・赤松貞雄少佐(陸士三四・陸大四六恩賜)に渡し、「以後一切渡さぬことを飯野に言い渡すように」と付け加えた。
元来は、板垣陸相も東條次官も同じ岩手県出身で、親しい間柄であった。だが、板垣大臣の寛容さと、東條次官の是々非々主義とが、そりが合わぬというか、日を経るに従って円滑を欠く場合が生じ始めた。
この大臣と次官の不協和音の間に立ち、赤松秘書官と大臣秘書官・真田穣一郎中佐(陸士三一・陸大三九)は、度々困惑したことがあった。
当時の参謀総長は閑院宮載仁(かんいんのみや・ことひと)親王元帥(フランス・サン・シール士官学校卒・フランス陸軍大学校卒)であったが、病気がちなので、参謀次長・多田駿中将(陸士一五・陸大二五)が統括していた。
板垣陸相を挟んで、この東條次官と多田参謀次長の二人はやがて対立していった。その結果、東條次官の辞任へと発展していった。
東條は政治家や官僚の仲間が全くいなかった。満州で関東軍参謀長時代に知り合ったこれらの人物以外にはいなかったのである。東條はこのような連中を私宅に引っ張ってきた。
これらの連中は、山田中佐の仲間では至極評判の悪い連中だった。
山田中佐は東條首相に「世間の評判を知っていますか。あんな連中を使って、将来ロクなことになりませんぞ」と言った。
すると東條首相は「だまっとれ!子供になにが分かる」と落雷した。陸軍中佐をつかまえて、子供あつかいだった。そのあと東條首相は「嫁さんもらって、すぐ離縁できるか」と言ったという。
昭和九年、東條は陸軍少将で陸軍士官学校の幹事だった。「東條英機・その昭和史」(楳本捨三・秀英書房)によると、東條の仕事に対する性格を示す話がある。
幹事が士官学校生徒の講評をするのは当然のことだ。ところが東條少将はすこし違っていた。士官学校には馬が千五百頭余り飼われていた。
東條少将は、生徒の講評だけでなく、いちいち検査して、馬の講評を下した。「生徒の講評は、教官、幹事の義務かも知れないが、馬の検査の講評をやったのは東條くらいのものであろう」と言われている。
昭和九年八月に東條英機は歩兵第二十四旅団長に補されたが、これは明らかに左遷だった。皇道派の幕僚たちは、頭角を現してきた東條をなんとかして予備役に編入させようと画策していた。
だが、その頃、演習において示した東條のすぐれた指揮能力のため、それもできず、当時、人事局長だった同期の後宮淳少将が、昭和十年九月二十一日付で、東條を関東軍憲兵隊司令官に栄転させた。
東條が首にならず、最終的に総理大臣までに栄達させる機会を与えたのは後宮淳少将(終戦時大将)ということになる。
だが、後年、後宮淳大将は、「総理大臣になんかなるからバカじゃ」と言ったという。それは東條に対する友情の言葉だった。
太平洋戦争勃発前に、東條英機と山本五十六が、一番、対米戦争を回避したがっていたということは、今では誰もが知っている。貧乏くじを引いたのは東條英機だった。あの時点で、誰が総理大臣になっても、戦争を避けることは不可能だった。
昭和十三年五月、東條英機中将は、板垣征四郎陸軍大臣(陸士一六・陸大二八)の陸軍次官に就任した。「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、梅津美治郎次官(陸士一五首席・陸大二三首席)が東條中将を後任の次官に推挙したのだった。
今回の陸軍大臣の異動は、杉山元陸相(陸士一二・陸大二二)が北支出張中に、近衛文麿首相が、陸相を急に罷免し、後任に板垣中将を指名したことによるものだった。ところが、陸軍大臣より、東條次官の発表のほうが早く行われたので、問題となった。
東條中将が次官に就任して何日か経った頃、重臣の平沼騏一郎男爵が閣議後に板垣陸相に飯野吉三郎に機密費を出してやってくれと頼んだ。
飯野吉三郎は平沼男爵が信用している男で、平素平沼男爵が援助を与えていた。板垣陸相は平沼男爵の申し出を承諾して、東條次官にこのことを申し付けた。陸軍における機密費の取り扱いは次官の仕事だった。
だが、東條次官はこのようなことには大不賛成であった。しかし、陸相が一応承諾されているので、五万円を秘書官・赤松貞雄少佐(陸士三四・陸大四六恩賜)に渡し、「以後一切渡さぬことを飯野に言い渡すように」と付け加えた。
元来は、板垣陸相も東條次官も同じ岩手県出身で、親しい間柄であった。だが、板垣大臣の寛容さと、東條次官の是々非々主義とが、そりが合わぬというか、日を経るに従って円滑を欠く場合が生じ始めた。
この大臣と次官の不協和音の間に立ち、赤松秘書官と大臣秘書官・真田穣一郎中佐(陸士三一・陸大三九)は、度々困惑したことがあった。
当時の参謀総長は閑院宮載仁(かんいんのみや・ことひと)親王元帥(フランス・サン・シール士官学校卒・フランス陸軍大学校卒)であったが、病気がちなので、参謀次長・多田駿中将(陸士一五・陸大二五)が統括していた。
板垣陸相を挟んで、この東條次官と多田参謀次長の二人はやがて対立していった。その結果、東條次官の辞任へと発展していった。