昭和十二年七月七日の盧溝橋事件以後の出兵をめぐっての論争において、支那事変の「拡大派」・「不拡大派」論争は、この問題を文字通りに解釈して、一般的に次の様な印象を与えている。
「拡大派」とは、支那事変を際限なく拡大することを望み策謀した一派である。「不拡大派」とは、あくまでその拡大に反対した和平派の一派である。
だが、これは心情的な通俗論で、「拡大派」・「不拡大派」の論争の要点は、盧溝橋事件以後の出兵をめぐっての論争である。
すなわち、出兵に対する考え方、方法論に若干の差異はあったとしても、出兵の不可避を認める点においては、結局、同意見だったといえる。
昭和十二年三月参謀本部第一部長に就任した石原莞爾少将は、七月七日の盧溝橋事件以後の出兵については「不拡大派」であった。
後に、昭和十四年に参謀本部が作成した石原莞爾中将回想応答録において、石原中将は次の様に述べている。
「満州事変後の日本の行き方に、石原の考えでは二つの道があったと思います。一つは蒋介石と力強き外交折衝を行い、蒋介石をして満州国の独立を承認せしめ、支那における政治的権益を引上げ東亜連盟の線に沿って進めば、私は蒋介石との間に了解ができたと思います」
「第二案は停戦協定の線に止まらずに、北京、南京を攻略して蒋介石を屈服せしめ、満州国を承認させて支那本土より撤兵し、その後東亜連盟を作るというのであります。然るにその何れをも行い得ずして『その日暮らし』という状態でございました」。
つまり、当時の石原少将は「東亜連盟」構想により、蒋介石の満州国承認と提携が十分できると考えていた。だからその考えを基礎にして不拡大方針を主張した。
ところが、「拡大派」は、昭和十二年三月、参謀本部が、次の三名を東京に招致して、現地の情勢判断を聴取した結果に基づいてその論拠を確定していた。
在中華民国大使館附武官・喜多誠一(きた・せいいち)少将(滋賀・陸士一九・陸大三一・参謀本部支那班長・歩兵大佐・歩兵第三七連隊長・上海派遣軍情報課長・参謀本部支那課長・少将・在中華民国大使館附武官・天津特務機関長・北支那方面軍特務部長・中将・華北連絡部長官・第一四師団長・第六軍司令官・第一二軍司令官・第一方面軍司令官・大将・終戦・シベリア抑留・昭和二十二年八月シベリアで病死・享年六十歳・正三位・勲一等・功四級)。
支那駐屯軍参謀・和知鷹二(わち・たかじ)中佐(広島・陸士二六・陸大三四・支那駐屯軍参謀・歩兵大佐・歩兵第四四連隊長・大本営蘭工作機関長・広東特務機関長・少将・台湾軍参謀長・第一四軍参謀長・中将・南方軍総参謀副長・第三五軍参謀長・南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官・中国憲兵隊司令官・終戦・戦犯容疑で巣鴨拘置所拘留・重労働六年の判決・仮釈放・公職追放・昭和五十三年十月死去・享年八十五歳)。
支那駐屯軍参謀・大橋熊雄(おおはし・くまお)少佐(新潟・陸士二九・陸大三九・駐蒙軍高級参謀・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・第五一師団参謀長・山東省特務機関長・少将・北支那方面軍特務部長・昭和十九年四月戦病死・中将・享年四十九歳)。
上記三名から徴収した現地の情勢判断の結果の概略は次の通りだった。
一、蒋介石政権の抗日政策は、満州回復まで不変の政策として継続するであろう。北支におけるわが譲歩によって、抗日政策の消滅を予期するごときは見当違いのはなはだしきもので、最も有利な場合においても、ただ一時しのぎの策たりうるにすぎないであろう。蒋介石政権としては、名実ともに絶対抗日方針のもとに、内部の強化、軍備の充実、欧米依存、南京北支一体化などの促進に急進すべきことを、我が日本としては明確に認識して、根本的対策を立てるべきであり、いやしくも小手先の芸によって当面をとりつくろうごときは厳に避けなければならない。同時に、いかなる場合になりても、軟弱政策の結果は、いよいよ現地の事態を悪化するにすぎないことを銘記しておく必要がある。
二、以上のように、日支関係の悪化は、とうてい一様の手段では調整できるとはおもわれないのであるが、一方、わが対ソ関係を考えれば、応急的には次の方針を取る必要がある。
(1)わが対ソ戦の場合、少なくとも蒋介石政府がソ連側に参戦の挙に出ぬよう対支国交を調整すること。
(2)前項の見込みがない場合においては、対ソ行動に先立ち、まだ対支一撃を加えて蒋介石政権の基盤をくじくこと。この場合においては、我が日本としてソ支両面作戦を覚悟して準備する必要がある。
(3)前二項のいずれの場合たるを問わず、当面まず応急的に対ソ関係の調整をはかり、この間、対ソ支戦備の充実を促進すること。
「拡大派」とは、支那事変を際限なく拡大することを望み策謀した一派である。「不拡大派」とは、あくまでその拡大に反対した和平派の一派である。
だが、これは心情的な通俗論で、「拡大派」・「不拡大派」の論争の要点は、盧溝橋事件以後の出兵をめぐっての論争である。
すなわち、出兵に対する考え方、方法論に若干の差異はあったとしても、出兵の不可避を認める点においては、結局、同意見だったといえる。
昭和十二年三月参謀本部第一部長に就任した石原莞爾少将は、七月七日の盧溝橋事件以後の出兵については「不拡大派」であった。
後に、昭和十四年に参謀本部が作成した石原莞爾中将回想応答録において、石原中将は次の様に述べている。
「満州事変後の日本の行き方に、石原の考えでは二つの道があったと思います。一つは蒋介石と力強き外交折衝を行い、蒋介石をして満州国の独立を承認せしめ、支那における政治的権益を引上げ東亜連盟の線に沿って進めば、私は蒋介石との間に了解ができたと思います」
「第二案は停戦協定の線に止まらずに、北京、南京を攻略して蒋介石を屈服せしめ、満州国を承認させて支那本土より撤兵し、その後東亜連盟を作るというのであります。然るにその何れをも行い得ずして『その日暮らし』という状態でございました」。
つまり、当時の石原少将は「東亜連盟」構想により、蒋介石の満州国承認と提携が十分できると考えていた。だからその考えを基礎にして不拡大方針を主張した。
ところが、「拡大派」は、昭和十二年三月、参謀本部が、次の三名を東京に招致して、現地の情勢判断を聴取した結果に基づいてその論拠を確定していた。
在中華民国大使館附武官・喜多誠一(きた・せいいち)少将(滋賀・陸士一九・陸大三一・参謀本部支那班長・歩兵大佐・歩兵第三七連隊長・上海派遣軍情報課長・参謀本部支那課長・少将・在中華民国大使館附武官・天津特務機関長・北支那方面軍特務部長・中将・華北連絡部長官・第一四師団長・第六軍司令官・第一二軍司令官・第一方面軍司令官・大将・終戦・シベリア抑留・昭和二十二年八月シベリアで病死・享年六十歳・正三位・勲一等・功四級)。
支那駐屯軍参謀・和知鷹二(わち・たかじ)中佐(広島・陸士二六・陸大三四・支那駐屯軍参謀・歩兵大佐・歩兵第四四連隊長・大本営蘭工作機関長・広東特務機関長・少将・台湾軍参謀長・第一四軍参謀長・中将・南方軍総参謀副長・第三五軍参謀長・南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官・中国憲兵隊司令官・終戦・戦犯容疑で巣鴨拘置所拘留・重労働六年の判決・仮釈放・公職追放・昭和五十三年十月死去・享年八十五歳)。
支那駐屯軍参謀・大橋熊雄(おおはし・くまお)少佐(新潟・陸士二九・陸大三九・駐蒙軍高級参謀・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・第五一師団参謀長・山東省特務機関長・少将・北支那方面軍特務部長・昭和十九年四月戦病死・中将・享年四十九歳)。
上記三名から徴収した現地の情勢判断の結果の概略は次の通りだった。
一、蒋介石政権の抗日政策は、満州回復まで不変の政策として継続するであろう。北支におけるわが譲歩によって、抗日政策の消滅を予期するごときは見当違いのはなはだしきもので、最も有利な場合においても、ただ一時しのぎの策たりうるにすぎないであろう。蒋介石政権としては、名実ともに絶対抗日方針のもとに、内部の強化、軍備の充実、欧米依存、南京北支一体化などの促進に急進すべきことを、我が日本としては明確に認識して、根本的対策を立てるべきであり、いやしくも小手先の芸によって当面をとりつくろうごときは厳に避けなければならない。同時に、いかなる場合になりても、軟弱政策の結果は、いよいよ現地の事態を悪化するにすぎないことを銘記しておく必要がある。
二、以上のように、日支関係の悪化は、とうてい一様の手段では調整できるとはおもわれないのであるが、一方、わが対ソ関係を考えれば、応急的には次の方針を取る必要がある。
(1)わが対ソ戦の場合、少なくとも蒋介石政府がソ連側に参戦の挙に出ぬよう対支国交を調整すること。
(2)前項の見込みがない場合においては、対ソ行動に先立ち、まだ対支一撃を加えて蒋介石政権の基盤をくじくこと。この場合においては、我が日本としてソ支両面作戦を覚悟して準備する必要がある。
(3)前二項のいずれの場合たるを問わず、当面まず応急的に対ソ関係の調整をはかり、この間、対ソ支戦備の充実を促進すること。