陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

682.梅津美治郎陸軍大将(22)これはおおげさに言えば、軍務局始まって以来のことだと、局員一同が驚いたた

2019年04月19日 | 梅津美治郎陸軍大将
 私はこの言葉を聞いて、これは偽らざる次官の心境であると思った。そうして次官の慎重なる態度に深く敬意を表し、かつ礼を失した私の態度のお詫びをしたことがある。

 昭和・平成時代の編集者・高橋正衛(たかはし・まさえ・青森・中央大学専門部経済学科卒・学徒動員・みすず書房創立・みすず書房勤務・みすず書房取締役・第十三回菊池寛賞・著書「二・二六事件」「昭和の軍閥」など)は陸軍次官・梅津中将について次の様に述べている。
 
 粛軍人事の推進役は陸軍次官の梅津美治郎中将である。粛軍人事のみならず、機構改革、軍部大臣現役制も当然、梅津の手になると思われる。

 軍務局長の権限をみたとき、実質的には次官よりも権限があると言ったが、次官は文字通り事務次官であった。

 議会にも、大臣と軍務局長は出席するが、次官は陸軍省に残って留守訳である。

 小磯は軍務局長の時、決裁書類の次官のハンを押すところにも自分のハンを押して、大臣のところに書類を持って行ったという逸話さえ残っている。

 梅津は次官になると、大臣や軍務局長をしっかりと押さえたようである。このころの軍務局員の書いたものを見ると、ある日、書類が梅津次官のところに廻った。

 梅津はその書類を訂正して、また差し戻した。これはおおげさに言えば、軍務局始まって以来のことだと、局員一同が驚いたとのことである。

 荒木貞夫氏は、私が梅津についてたずねたとき、次の様に語った。

 荒木氏が陸相の時、梅津は参謀本部の総務部長であった。その頃のある日、荒木陸相が梅津の部屋に入ったことがある。

 その時、彼の机の上には紙一枚はおろか、何一つも置かれておらず、その机の前に、じっと目を閉じて座っていた梅津を見たときは不気味であったと、荒木氏は語ったが、これ以上は私に話してくれなかった。

 陸軍次官・梅津美治郎中将と参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐(昭和十一年六月参謀本部戦争指導課長・昭和十二年一月参謀本部第一部長心得)は、二・二六事件(昭和十一年二月二十六日)後の粛軍時代に、陸軍省と参謀本部の実質的協力者として両者は協力し合い、宇垣内閣を協同歩調で流産(昭和十二年一月二十九日)させたところまでは、協調的であった。

 やがて林内閣の組閣(昭和十二年二月二日)で対立的立場になり、近衛内閣時代、支那事変の勃発(盧溝橋事件・昭和十二年七月)に対する国家の対処方針において、陸軍次官・梅津美治郎中将と参謀本部第一部長・石原莞爾少将は腹の底から協調できなかったのである。

 昭和十二年七月支那事変勃発当時、参謀本部第一部長・石原莞爾少将配下の戦争指導課長は河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)大佐(富山・陸士二四・陸大三三恩賜・関東軍参謀・砲兵大佐・関東軍第二課長・近衛野砲連隊長・参謀本部戦争指導課長・航空兵大佐・参謀本部作戦課長・浜松飛行学校教官・少将・在ドイツ国大使館附武官・第七飛行師団長・防衛総参謀長・中将・航空本部総務部長・第二飛行師団長・第二航空軍司令官・航空総監部次長・参謀次長・終戦・戦後GHQ軍事情報部歴史課特務機関「河辺機関」結成・昭和三十五年六月死去・享年六十九歳)だった。

 戦後、河辺虎四郎元中将は、当時の参謀本部第一部長・石原莞爾少将を、次の様に評価している。

 「(石原中将は)関東軍あたりをやらせれば立派なものだが、中央で人をまとめて使うことはできない人である」。
 
 昭和十二年四月から八月まで、参謀本部戦争指導課高級課員として稲田正純(いなだ・まさずみ)中佐(鳥取・陸士二九・陸大三七恩賜・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・阿城重砲連隊長・第五軍参謀副長・少将・第五軍参謀長・南方軍参謀長・インパール作戦に反対し更迭・第二野戦根拠地隊司令官・第六飛行師団長心得・独自脱出で停職・第三船舶輸送司令官・中将・第一六方面軍参謀長・終戦・九州大学生体解剖事件及び油山事件の戦犯容疑で巣鴨プリズン収監・BC級戦犯として重労働七年の判決・釈放・昭和六十一年死去・享年八十九歳)は勤務した。

 戦後、稲田正純元中将は、当時の、陸軍次官・梅津美治郎中将を、次の様に評価している。

 「梅津は、中央向きの有能な官僚型であり、能率的な態勢をつくって省部を指導するのに向いた人であった」。