陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

424.乃木希典陸軍大将(4)二十三歳の乃木文蔵(希典)はいきなり陸軍少佐に任ぜられた

2014年05月09日 | 乃木希典陸軍大将
 慶応元年、源三(乃木希典)は十七歳のときに、憧れの藩校、明倫館に入学することができた。同じ毛利でも支藩の者が入学するのは難しかったが、玉木文之進の援助で入学ができたのだった。

 明倫館時代、源三の学友であった高島北海(たかしま・ほっかい・山口県萩市・工部省入省・鉱山学校・内務省地理局・農商務省・フランス留学で水利林業を学ぶ・フランスで日本画も描く・リモージュ美術館に作品寄贈・フランス教育功労勲章・帰国後林野行政に従事しながら日本画家として大作を次々に発表・地理学者・地質学者・昭和六年没)は、源三について、次のように述べている(要旨)。

 「乃木さんは負け惜しみが強く、非常に強情であった。乃木さんは萩から故郷の長府まで十八里の道を歩いて帰るのだが、普通の人は朝出発して、その晩は途中で一泊する」

 「だが、乃木さんは夕方に萩を出発し、夜道を歩き、十八里の道を一気に歩き続け帰郷した。山道はひどい道で、昼間でも歩きにくかった。『大変だろう』言うと、乃木さんは『なあに、萩と長府は廊下続きだ』と平然としていた」。

 「あるとき、乃木さんが長府に帰ったとき、その日は氏神様のお祭りだった。乃木さんが実家の敷居をまたいで入ろうとしたら、父の十郎希次が『源三、何しに帰った!』と言った」

 「乃木さんが『今日は学校が休みで、祭りと聞いたので帰って来ました』と答えると、父はさらに大きな声で『いったん学問のために家を出た者が、お祭りだからといって家に帰るとはもってのほかだ。そのような薄志弱行では事がなせるか! すぐに萩へ帰れ。この敷居をまたぐことはならん!』と叱りつけた」

 「母親がいろいろとりなしたが、父は聞き入れず、乃木さんは、父の言うことがもっともだと感じ、疲労と空腹でへとへとになりながらも、そのまま萩へとって返した。乃木さんの強情、我慢というのは、もうこの頃から養われていた」。

 以上の事から、乃木希典は非常に意志が強いことがわかる。だが、乃木源三(希典)は元々、小さいときから臆病であった。玉木文之進もこのことをよく知っていて、乃木に狐の番をさせることがしばしばあった。

 玉木の家の近くに墓があり、盆になると灯篭をつける。すると狐が出てきて、灯篭の油をなめる。そこで文之進は、源三に灯明の燃え尽きるまでそばで、張り番をさせた。

 「狐は追っ払うだけで殺すな」と命じられていたので、源三が追っ払っても、狐は殺されないと分かって、だんだん数多く集まってきて、源三を取り巻いて、油をなめたがった。

 これには、源三も非常に恐怖を感じた。しかし、文之進の怒りのほうがもっと恐ろしかったので、逃げずに、こわごわ張り番の役目を果たした。このようにして、文之進の厳しい訓育で、乃木源三は、幼少時代の虚弱から次第に脱していった。

 慶応二年、幕府の二回目の長州征伐が行われた。乃木源三は名前を「文蔵」に改名した。四月乃木文蔵は豊浦に帰り、高杉晋作が組織した奇兵隊に入った。山砲の指揮官となり、小倉口で戦うことになった。

 山縣狂介(山縣有朋)の指揮下に入り戦ったが、左足甲に銃弾擦過傷を受けた。乃木と山縣の結びつきはこの時にできた。

 明治四年十一月、二十三歳の乃木文蔵(希典)はいきなり陸軍少佐に任ぜられた。これには次のような事情があった。

 「殉死」(司馬遼太郎・文春文庫)によると、戊辰の騒乱が終わり、薩長が維新政府を樹立し、天下を取った。このとき乃木文蔵は、報国隊の漢学助教(読書係)をしていたが、従兄の御堀耕助(長州報国隊総督)がしきりに新政府の軍人になることを乃木文蔵にすすめたので、その気になった。

 その後乃木文蔵は藩命により伏見の御親兵兵営に入りフランス式教練を受けた。スナイドル銃をかついで徒歩で行進する仕方から教わった。約六ヶ月の洋式軍事教育を受けた。

 同様な軍事教育を受けた多数の者は、東京に呼び出され、陸軍少尉や中尉に任ぜられたが、乃木文蔵のもとには何の沙汰もなかった。

 「乃木は軍人として不出来だったのではないか」と長府藩では噂する者もいて、乃木文蔵はこの時期、鬱々としていた。

 
 長州政界の巨頭になっていた御堀耕助は、従弟である乃木文蔵を大いに愛していた。だが、当時、結核で御堀耕助は病床にあった。

 たまたま乃木文蔵が御堀耕助を見舞いに行ったとき、薩摩藩出身の黒田清隆(後の陸軍中将・従一位・大勲位・伯爵)も見舞いに来ていた。