陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

706.野村吉三郎海軍大将(6)日高校長の訓辞は、私の意志を鉄のように固く、火のように熱くした

2019年10月04日 | 野村吉三郎海軍大将
 江田島生活は、入校式から始まる。入校式では、校長・日高壮之丞少将の訓示があった。

 校長・日高壮之丞少将の訓示は、ありきたりのものではなく、熱血ほとばしり、明日を期する日本海軍の烈々たる意志そのもので、若い新入生徒の肺腑を鋭く刺すものがあった。

 「野村吉三郎」(木場浩介編・野村吉三郎伝記刊行会・897頁・1961年)には、江田島の海軍兵学校入校式当日の、野村吉三郎生徒の心境を、野村吉三郎が六十年後に追憶した文章が次のように記されている。

 「私は前にも述べたように当初、兵学校を志願したのは決して年少海軍に志を立てるというようなものではなく、家計の都合上、何となく官費の学校として兵学校を選んだのであったが、上京して伏虎会の給費を受け、予備校に入って受験準備に大童であった二十七年、八年の頃は恰も日清の役が戦われ、国民の士気は怫然として騰(あが)っていたから、感じ易い少年の常として次第に海軍に身を投じることは、私の与えられた天命と思うようになって来た」

 「而も、その後には三国干渉のことなどがあって臥薪嘗胆の合言葉とともに国を挙げて海軍至上主義に奔(はし)っていたので、漸(ようや)く若い血汐が湧き立ち”我れ、海軍の道を往かん”という気概に燃えて来た」

 「そうして首尾よく一番でパスして、憧れの江田島生活に入った第一日に聞かされた日高校長の訓辞は、私の意志を鉄のように固く、火のように熱くした。終生を海軍軍人として御国に献げる欣びと誇りを確然として自覚したのである」

 「ただ付言しておきたいことは、この時の日高校長の訓辞は、その頃の時局を反映して壮烈をきわめた、といっても必ずしも後年の軍人、政治を論ずるというようなものではなく、飽く迄も海軍軍人の立場においての憂国の信念に溢れた発言であったということだ」。

 野村吉三郎は、海軍兵学校の厳しい生活の中で、自分を失わず、海軍軍人として国に奉仕するため、術科重視の教育に取り組み、腰を据えて勉学に励んだ。

 明治三十一年十二月、野村吉三郎は、座右の銘である「天は自ら助くる者を助ける」という頑張りの甲斐あって、学術優等(五九名中次席)の成績で海軍兵学校(二六期)を卒業し、御物(双眼鏡)を下賜された。

 卒業と同時に少尉候補生として練習艦「比叡」(二二五〇トン・乗員三〇〇名)に乗組んだ野村吉三郎候補生は、横須賀を出港して、遠洋航海の途についた。巡航先は北アメリカ太平洋沿岸とハワイだった。

 明治三十四年五月一日、野村吉三郎少尉は、一等戦艦「八島」(一二五一七トン・乗員七四一名)乗組みを免ぜられ、一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)乗組みを命ぜられた。

 一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)は、当時、イギリスのバロー・イン・ファーネスのビッカース社で建造中だった。

 野村吉三郎少尉は、この一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)受領の為の回航委員を命ぜられたのである。

 当時の一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)の回航委員長・艦長は、早崎源吾(はやさき・げんご)大佐(鹿児島・海兵三・砲艦「鳳翔」艦長・砲艦「天城」艦長・砲艦「赤城」艦長・コルベット「海門」艦長・大佐・コルベット「大和」艦長・防護巡洋艦「和泉」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・防護巡洋艦「高砂」艦長・装甲艦「鎮遠」艦長・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「鎮遠」艦長・戦艦「三笠」回航委員長・戦艦「三笠」艦長・少将・予備役・浦賀船渠社長・大正七年九月死去・享年六十四歳・功四級)。

 副長は、西山実親(にしやま・さねちか)中佐(高知・海兵八・一六番・防護巡洋艦「高砂」副長・一等戦艦「三笠」副長・回航委員・横須賀鎮守府兵事官・巡洋艦「八重山」艦長・大佐・防護巡洋艦「津島」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「八雲」艦長・一等戦艦「富士」艦長・戦艦「石見」艦長・台湾総督府海軍参謀長・少将・予備役・大正四年三月死去・享年五十四歳・功四級)。

 航海長は、有馬良橘(ありま・りょうきつ)中佐(和歌山・海兵一二・一六番・第一艦隊参謀・防護巡洋艦「音羽」艦長・大佐・防護巡洋艦「笠置」艦長・竹敷要港部参謀長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・第二艦隊参謀長・海軍砲術学校校長・少将・軍令部第一班長・第一艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・海軍教育本部長・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・予備役・明治神宮宮司・退役・議定官・明治神宮宮司・昭和十九年五月死去・享年八十四歳・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・満州帝国勲一位景雲章等)。