陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

707.野村吉三郎海軍大将(7)野村吉三郎は、軍政、軍令派に属し、陸上勤務でより重要なポストに就いている

2019年10月11日 | 野村吉三郎海軍大将
 野村吉三郎少尉ら回航委員の一行は、一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)副長・西山実親中佐に指揮され、日本郵船の「信濃丸」に乗船して、ロンドンを経由バローに向かった。

 艦長・早崎源吾大佐と、野村吉三郎少尉と同郷の先輩である航海長・有馬良橘中佐等は先発していた。

 野村吉三郎は後に、当時を回想して、同郷の先輩、航海長・有馬良橘中佐について、「有馬さんは、なかなか厳格な人で、喧しかったから、『三笠』回航中は、大いに油を絞られたものだ」と、語っている。

 明治三十四年十月、野村吉三郎少尉は中尉に進級した。明治三十五年二月十一日、日英同盟が発表され、野村吉三郎中尉は感激した。

 明治三十五年三月一日、一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)は正式に受領され、三月十五日、故国へ向かって、プリマス軍港を出港した。

 五月十八日、野村吉三郎中尉を乗せた一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)は、国民の歓呼の声に迎えられ、横須賀軍港に無事入港した。

 明治三十五年九月十日、野村吉三郎中尉は一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)乗組みを免ぜられ、防護巡洋艦「須磨」(二六五七トン・乗員三一〇名)の分隊長心得に転補された。

 明治三十六年一月二十三日、コルベット「金剛」(二二五〇トン・乗員三〇八名)の航海長心得兼分隊長心得を命ぜられた。

 最新鋭艦の一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン・乗員八六〇名)から降りた、野村吉三郎中尉が次に乗組みとなったのは、防護巡洋艦「須磨」(二六五七トン・乗員三一〇名)、次いでコルベット「金剛」(二二五〇トン・乗員三〇八名)だったが、両艦とも老朽の小艦だった。

 野村吉三郎の海軍軍人としての生涯の海上勤務は、あまり一流の新鋭艦に乗組みということがなかった。

 海軍には、艦隊派、軍政派、軍令派という系統があるとすれば、野村吉三郎は、軍政、軍令派に属し、陸上勤務でより重要なポストに就いている。

 明治三十六年九月二十六日、野村吉三郎中尉は大尉に進級した。二十五歳だった。
 
 日本とロシアの風雲いよいよ急を告げる明治三十六年十二月二十八日、日本帝国海軍では、艦隊の編成替えが行われ、次の三人の司令長官が任命された。

 第一艦隊司令長官・東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)中将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争で「春日丸」乗組・維新後海軍士官として英国の商船学校留学・コルベット「大和」艦長・大佐・コルベット「浅間」艦長・装甲艦「比叡」艦長・呉鎮守府参謀長・防護巡洋艦「浪速」艦長・呉鎮守府海兵団長・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・伯爵・元帥・東宮御学問所総裁・昭和九年五月死去・享年八十八歳・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

 第二艦隊司令長官・上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)中将(鹿児島・戊辰戦争・維新後海軍兵学寮・海兵四期・砲艦「豊島」艦長・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・英国出張・一等戦艦「朝日」回航委員長・少将・造船造兵監督官・海軍省軍務局長・兼軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・常備艦隊司令官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・男爵・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・後備役・大正五年八月死去・享年六十七歳・男爵・従二位・旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)。

 第三艦隊司令長官・片岡七郎(かたおか・しちろう)中将(鹿児島・海兵三期・ドイツ出張<伏見宮博恭王・山階宮菊麿王随従>・ドイツ国公使館附武官・大佐・ドイツ国公使館附武官<東伏見宮依仁親王御用掛>・装甲艦「金剛」艦長・防護巡洋艦「浪速」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・海軍砲術練習所所長・一等戦艦「八島」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・少将・呉鎮守府艦隊司令官兼呉鎮守府司令官・呉鎮守府艦政部長・竹敷要港部司令官・中将・第三艦隊司令長官・第一艦隊司令長官・海軍艦政本部長・男爵・舞鶴鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・後備役・大正九年一月死去・享年六十六歳・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・イギリス帝国ロイヤルビクトリア勲章ナイトコマンダー等)。