陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

736.野村吉三郎海軍大将(36)野村さんは外務省の若い者が掛け合いに行くと、むきになって議論をおっぱじめる

2020年05月01日 | 野村吉三郎海軍大将
 次に、当時の朝日新聞は次のように評している。

 「――外相に決まった野村大将、隻眼の今西郷―― 第一次上海事変では第三課引退長官の要職にあって活躍、肉弾を受けて右眼を失い、隻眼提督の異名を馳せた」

 「当時、停戦交渉にあたり、英・米・仏・伊各国代表間を奔走して外交手腕を示したことは、内外人のよく知るところで、海軍きってのアメリカ通として知られている」

 「軍事参議官から急旋回して学習院長におさまり、院内に鋼鉄の精神を叩きこんでいた。大将が欧州動乱の突発を契機として、いよいよ目まぐるしく広がりゆく外交舞台に出陣したことは、大将の明朗闊達な性格と思いあわせて頼もしい」。

 だが、残念ながら、内外の混乱は、この“今西郷外相”に十分の腕を振るわせてはくれなかった。

 当時の内情と野村吉三郎外務大臣の人柄を、毎日新聞が「素人大臣と万年浪人の悲劇」と題して次のような記事を出している。

 「野村さんは外務省の若い者が掛け合いに行くと、むきになって議論をおっぱじめる。膝付き合わせて話をしているうちに、だんだんと外交一本化というひたむきな要望が飲み込めた……というよりは、青年将校だけが持つ熱情が野村さんを包み込んでしまった」

 「齢、耳順(六十歳)を過ぎた老提督には、若い者が可愛くてたまらない……というところがあったようだ」

 「かつて昭和五年、統帥権干犯問題の時、条約派の闘将として艦隊派の青年将校を相手に論争しながら、しかもなお海軍部内に信望を持つ野村さんの性格、それはまた学習院長として、若い学生に取り巻かれながら、莞爾として仁王立ちになっている風格でもあった」

 「『おれに任せろ』と野村さんがいいだしたのも、こういう性格から発した言葉であった。それを政府は突っ放したのである」。

 残念ながら野村吉三郎の外相としての船出はかくのごとく芳しくなかったが、それで挫けるような生易しい紀州っぽではなかった。

 昭和十五年七月、陸軍は伝家の宝刀を抜いた。七月十六日、陸軍三国同盟派の圧力によって、畑俊六陸軍大臣が単独辞職した。

 陸軍が後継陸相を出さぬよう工作したので、同日、米内光政内閣は総辞職に追い込まれた。

 七月二十二日、陸軍の輿望(よぼう)を担って近衛文麿が第三次内閣を組閣した。外相にはかねて近衛に接近して三国同盟絶対論を吹き込んでいた松岡洋介、陸相には大陸からの撤兵不賛成、対米強硬論者の東條英機が陸軍次官から昇格し、三者会談によって新内閣の中心となるべき方針は三国同盟締結にありと決定した。

 この線に基づき、九月二十七日には、ベルリンでヒトラーと日本の駐独大使・来栖三郎の手によって三国同盟が締結された。

 皮肉にも、野村吉三郎がワシントンで駐米大使として平和交渉に忙殺されている時、その補佐役として送られてきたのが、この来栖三郎であった。

 昭和十五年十一月、野村吉三郎は駐米全権大使に任じられた。野村吉三郎は最も困難な任務を押し付けられたのである。この時、野村吉三郎を推したのは当時の外務大臣、松岡洋介であった。

 十一月二十七日、宮中で全権大使親任式が挙行された。三国同盟締結から二か月後であった。野村吉三郎は、ここに至るまでの状況を次のように回顧している。

 松岡氏から避暑先に電報が来たときは、何事か……と思ったが、東京へ帰ってみるとアメリカ行きの話のようであった。

 最初、私としては受ける気はなかった。たんに“火中の栗は拾わず”というような保身上の理由ではなく、当時の日本の政策――片手に棍棒を持ち、片手に大福餅を持ったような対米外交では、私のような武骨者が出る幕ではなく、のこのこ出かけてミスでも冒した場合は、腹を切っても、なお臣節にもとることになると考えて固辞したのである。

 しかし、私として一番弱かったのは、海軍から薦められたことである。当時の日本では、どの階層よりも海軍がアメリカについて関心を持ち、できうる限り日米の妥協をはかりたいと望んでいた。