田中大将が福田大将起用に反対したので、仕方なく清浦子爵は「それならば、上原元帥と田中大将が協議の上、三名の候補者を推薦して貰いたい。その中から僕が指名しよう」と提議すると田中大将も同意した。
田中大将は陸相候補として福田雅太郎大将、尾野実信大将、宇垣一成中将の三人を順に挙げ、これを書き物にして。秘書官に鎌倉の上原元帥へ届けさせた。宇垣一成中将は当時陸軍次官だった。
上原元帥は「ここに記された選定人名とその順序は自分の意見と齟齬しない。ただし、ここにある第三者の名前の者(宇垣)とこれに等しい年少者は、政局に顧みて、これを任用しないことが国軍のために有利である」という意見を付箋にして田中大将に返した。
1月6日、田中大将は清浦子爵を訪問し、上原元帥と協議の上決定したとして、陸相候補者名簿を提出した。そして「自分としては第三位にある宇垣中将を採用してもらいたいのです」と言った。
清浦子爵は「順位からいけば第一位を採らぬとすれば、第二位の尾野大将ではないか」と答えた。
すると田中大将は「尾野大将には就任の意思がありません。交渉しても辞退します。就任の意思のないものに交渉するのは時間の無駄です。宇垣中将を採用するのがよろしい」と強引に言った。
尾野大将は陸士、陸大をともに主席で卒業し、児玉源太郎に認められて、日露戦争では満州軍参謀に抜擢された。その後陸軍次官、関東軍司令官、軍事参議官になっていた。大器と言われた人物だが、事実陸相就任の意思はなかった。
田中大将は前日の1月5日、教育総監・大庭二郎大将(山口)、参謀総長・河合操大将(大分)を招いて「石光中将が清浦内閣組閣にあたり、軍隊指揮官の身にありながら、福田大将を陸軍大臣候補に推し、自らはその次官たらんと狂奔しているのは実に不謹慎。このような運動によって福田大将の就任を見るがごときは将来に悪例を残す。また福田大将が我々に一言の相談もなくこれを内諾したことは、われわれの面目を踏み潰すものであるから、厳にこれを糾弾しなければならぬ」と述べた。両大将はこれに同意した。
また、田中大将は、山梨半造大将、尾野実信大将、町田経宇大将を招いて同じ趣旨を話、賛同を得た。
そのあと町田大将が、福田大将を訪ねて清浦子爵から内交渉を受けていたかどうか糺すと「今日までなんらの交渉を受けていない」とのことだったので、町田大将は他の大将連に伝えた。町田大将は鹿児島出身で上原元帥閥であった。
一方、石光中将は身の潔白を証するため、手記をものして、各方面に発送した。だが大勢は田中大将に軍配が上がり、1月7日、清浦内閣が成立、宇垣一成中将が陸軍大臣に就任した。
内閣成立後の1月7日午後、田中大将は上原元帥を東京大井鹿島谷の私邸を訪問した。
田中大将は「陸相候補者は首相の単独意思で専決せしむべきではないと思います。将来は前陸相が後任者を推薦し、三長官の同意と軍事参事官の協議を得る必要があると思います」と述べた。
上原元帥は「自分は全く反対である。将来研究の余地がある。しかし、熟考の上、明八日、貴邸を訪問して自分の意見を述べたい」と答えた。
田中大将は陸相候補として福田雅太郎大将、尾野実信大将、宇垣一成中将の三人を順に挙げ、これを書き物にして。秘書官に鎌倉の上原元帥へ届けさせた。宇垣一成中将は当時陸軍次官だった。
上原元帥は「ここに記された選定人名とその順序は自分の意見と齟齬しない。ただし、ここにある第三者の名前の者(宇垣)とこれに等しい年少者は、政局に顧みて、これを任用しないことが国軍のために有利である」という意見を付箋にして田中大将に返した。
1月6日、田中大将は清浦子爵を訪問し、上原元帥と協議の上決定したとして、陸相候補者名簿を提出した。そして「自分としては第三位にある宇垣中将を採用してもらいたいのです」と言った。
清浦子爵は「順位からいけば第一位を採らぬとすれば、第二位の尾野大将ではないか」と答えた。
すると田中大将は「尾野大将には就任の意思がありません。交渉しても辞退します。就任の意思のないものに交渉するのは時間の無駄です。宇垣中将を採用するのがよろしい」と強引に言った。
尾野大将は陸士、陸大をともに主席で卒業し、児玉源太郎に認められて、日露戦争では満州軍参謀に抜擢された。その後陸軍次官、関東軍司令官、軍事参議官になっていた。大器と言われた人物だが、事実陸相就任の意思はなかった。
田中大将は前日の1月5日、教育総監・大庭二郎大将(山口)、参謀総長・河合操大将(大分)を招いて「石光中将が清浦内閣組閣にあたり、軍隊指揮官の身にありながら、福田大将を陸軍大臣候補に推し、自らはその次官たらんと狂奔しているのは実に不謹慎。このような運動によって福田大将の就任を見るがごときは将来に悪例を残す。また福田大将が我々に一言の相談もなくこれを内諾したことは、われわれの面目を踏み潰すものであるから、厳にこれを糾弾しなければならぬ」と述べた。両大将はこれに同意した。
また、田中大将は、山梨半造大将、尾野実信大将、町田経宇大将を招いて同じ趣旨を話、賛同を得た。
そのあと町田大将が、福田大将を訪ねて清浦子爵から内交渉を受けていたかどうか糺すと「今日までなんらの交渉を受けていない」とのことだったので、町田大将は他の大将連に伝えた。町田大将は鹿児島出身で上原元帥閥であった。
一方、石光中将は身の潔白を証するため、手記をものして、各方面に発送した。だが大勢は田中大将に軍配が上がり、1月7日、清浦内閣が成立、宇垣一成中将が陸軍大臣に就任した。
内閣成立後の1月7日午後、田中大将は上原元帥を東京大井鹿島谷の私邸を訪問した。
田中大将は「陸相候補者は首相の単独意思で専決せしむべきではないと思います。将来は前陸相が後任者を推薦し、三長官の同意と軍事参事官の協議を得る必要があると思います」と述べた。
上原元帥は「自分は全く反対である。将来研究の余地がある。しかし、熟考の上、明八日、貴邸を訪問して自分の意見を述べたい」と答えた。