宇垣陸相は「この件の取調べを続けるには、組閣に関りを持った有松枢密院顧問、西原亀三、福原俊丸男爵など部外者にも及ばせねばなりませぬ。これらを証人として引き合いには出せません。また部内長老の争いを部外にさらけ出すことも忍びませぬ」と答えた。
すると上原元帥は「きれいさっぱりと、やったらいいじゃないか」と答えたと言う。
「国軍の名誉、社会の大局にかんがみて閣下のご反省を願いたく、この問題はこれで打ち切りたいと存じます」
宇垣陸相は「田中大将を予備役にせよ」と言う上原元帥の要求も断った。上原元帥と宇垣陸相の対立もこれで顕著になった。
「橋本大佐の手記」(みすず書房)によると、大正時代になり、薩摩の大山巌元帥(西郷隆盛の従弟)が死ぬと、長州派が軍の実権を握り、山県有朋、田中義一が陸軍を支配した。
この間、薩摩の上原勇作元帥が失地回復を狙ったが田中義一に押さえられて失敗した。
宇垣一成は田中義一の引きで長州派に随身して陸軍大臣になった。だが宇垣は田中義一が死ぬと長州派に反旗を翻し長州閥を粉砕した。
陸軍の出世方式は人物本位でなく学校本位であった。軍中央の要職に就くのは陸軍大学校の卒業者に限るから、派閥を粉砕する妙手は陸軍大学校に入れないことだ。
宇垣一成陸軍大臣は、長州出身者はどんな秀才であろうとも身元を調べ上げてすべて落第させた。こうして長州の勢力を削いだが、この結果、新たに宇垣グループができた。
宇垣一成を筆頭に、鈴木荘六、白川義則、南次郎、金谷範三、二宮治重、畑英太郎、畑俊六、阿部信行、杉山元、小磯國昭、建川美次らである。
この宇垣グループに対抗したのが佐賀の宇都宮太郎大将を中心に、真崎甚三郎、村岡長太郎、武藤信義、柳川平助、荒木貞夫、渡辺錠太郎らの、いわゆる真崎グループである。
宇垣は陸相を通算四期以上続け、四個師団を削減する宇垣軍縮を断行し、力量手腕は抜群といわれた。だが、宇垣には欠点がある。それは政権に対する強欲だ。
さらに四期も陸相をやった結果人物が驕慢無礼となってきて、宇垣は陸軍部内で人気が下降してきた。
そこで昭和6年3月、小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長らは宇垣勢力の強化案を検討していた。
ちょうどこういう時期に橋本欣五郎大佐、大川周明らの宇垣政権を狙ったクーデター案が浮上してきた。三月事件である。
ところが、途中で宇垣は変心して、このクーデターから抜けた。濱口雄幸(おさち)首相の容態がはかばかしくなく、濱口内閣は総辞職を決意、次期政権担当の総裁に宇垣一成を迎える工作が、内相安達謙蔵らが盛り上げていた。
こうなれば宇垣は何もクーデターをやる必要はない。そこで宇垣は「東京撹乱を認めたることなし」と言い出したのであろう。ところが、宇垣首班工作は失敗して若槻儀礼次郎が首相になった。
すると上原元帥は「きれいさっぱりと、やったらいいじゃないか」と答えたと言う。
「国軍の名誉、社会の大局にかんがみて閣下のご反省を願いたく、この問題はこれで打ち切りたいと存じます」
宇垣陸相は「田中大将を予備役にせよ」と言う上原元帥の要求も断った。上原元帥と宇垣陸相の対立もこれで顕著になった。
「橋本大佐の手記」(みすず書房)によると、大正時代になり、薩摩の大山巌元帥(西郷隆盛の従弟)が死ぬと、長州派が軍の実権を握り、山県有朋、田中義一が陸軍を支配した。
この間、薩摩の上原勇作元帥が失地回復を狙ったが田中義一に押さえられて失敗した。
宇垣一成は田中義一の引きで長州派に随身して陸軍大臣になった。だが宇垣は田中義一が死ぬと長州派に反旗を翻し長州閥を粉砕した。
陸軍の出世方式は人物本位でなく学校本位であった。軍中央の要職に就くのは陸軍大学校の卒業者に限るから、派閥を粉砕する妙手は陸軍大学校に入れないことだ。
宇垣一成陸軍大臣は、長州出身者はどんな秀才であろうとも身元を調べ上げてすべて落第させた。こうして長州の勢力を削いだが、この結果、新たに宇垣グループができた。
宇垣一成を筆頭に、鈴木荘六、白川義則、南次郎、金谷範三、二宮治重、畑英太郎、畑俊六、阿部信行、杉山元、小磯國昭、建川美次らである。
この宇垣グループに対抗したのが佐賀の宇都宮太郎大将を中心に、真崎甚三郎、村岡長太郎、武藤信義、柳川平助、荒木貞夫、渡辺錠太郎らの、いわゆる真崎グループである。
宇垣は陸相を通算四期以上続け、四個師団を削減する宇垣軍縮を断行し、力量手腕は抜群といわれた。だが、宇垣には欠点がある。それは政権に対する強欲だ。
さらに四期も陸相をやった結果人物が驕慢無礼となってきて、宇垣は陸軍部内で人気が下降してきた。
そこで昭和6年3月、小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長らは宇垣勢力の強化案を検討していた。
ちょうどこういう時期に橋本欣五郎大佐、大川周明らの宇垣政権を狙ったクーデター案が浮上してきた。三月事件である。
ところが、途中で宇垣は変心して、このクーデターから抜けた。濱口雄幸(おさち)首相の容態がはかばかしくなく、濱口内閣は総辞職を決意、次期政権担当の総裁に宇垣一成を迎える工作が、内相安達謙蔵らが盛り上げていた。
こうなれば宇垣は何もクーデターをやる必要はない。そこで宇垣は「東京撹乱を認めたることなし」と言い出したのであろう。ところが、宇垣首班工作は失敗して若槻儀礼次郎が首相になった。