陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

421.乃木希典陸軍大将(1)「乃木が死んだんだってのう。馬鹿な奴だなあ」と言った

2014年04月17日 | 乃木希典陸軍大将
 大正元年九月十三日午後八時、乃木希典は自邸の二階の部屋に明治天皇の写真を飾り、その写真の下で殉死した。静子夫人も共に殉死した。

 明治天皇は、糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して、明治四十五年七月二十九日に崩御した。同年(大正元年)九月十三日に、東京・青山の帝国陸軍練兵場で大喪儀(御大葬)が行われた。

 「新聞を疑え」(百目鬼恭三郎・講談社)によると、明治末から昭和初期にかけて、諷刺文学作家として活躍した生方敏郎の著書、「明治大正見聞史」(中公文庫)に、「乃木大将の忠魂」という一章がある。

 大正元年九月十三日夜、当時東京朝日新聞の新聞記者だった生方敏郎は、明治天皇の御大葬の模様を取材して社に戻り、原稿を書き終えて雑談をしているところへ、「乃木希典夫妻が殉死した」という報が入ってきた。

 そこで、生方は同僚と一緒に深夜、乃木大将の旧主家である毛利子爵別邸を訪れて取材して戻る、という顛末を描いたのが「乃木大将の忠魂」だ。ここでは、新聞社内で乃木大将の殉死に対する批判があけすけに語られている様子を記している。それは次のようなものだった。

 夫人が一緒に自殺したと聞いて、「では心中だな」と社会部記者が言ったので、皆がどっと笑った。「乃木大将は馬鹿だな」と、若い植字工が大声で叫んだのをきっかけに、皆の口から乃木大将を非難する声が盛んに出てきた。

 主筆のT(鳥居素川だろう)が、「そういうことはこの際慎んだら、どうです」とたしなめると、今度はTを偽善者と非難する声が盛んになった。社長のM(村山竜平)が編輯室(編集室)に入って来て、「乃木が死んだんだってのう。馬鹿な奴だなあ」と言った。

 ところが、翌朝の紙面には、乃木大将の殉死が「軍神乃木将軍自殺す」と、当時としては破天荒の四段抜きの大見出しで扱われ、尊敬を極めた美しい言葉で綴られていた。これについて生方は次のように記している。

 「私はただ唖然として、新聞を下に置いた。昨夜乃木将軍を馬鹿だと言った社長のもとに極力罵倒した編輯記者らの筆によって起草され、職工殺しだと言った職工たちに活字を組まれ、とても助からないとこぼした校正係に依って校正され、そして出来上がったところは、『噫軍神乃木将軍』である。私はあまりに世の中の表裏をここに見せ付けられたのであった」。

 <乃木希典(のぎ・まれすけ)陸軍大将プロフィル>

嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)、長州藩の支藩である長府藩(山口県西部)の藩士・乃木十郎希次と妻・壽子の三男。長府毛利候上屋敷(毛利甲斐守邸跡・江戸麻布日ガ窪)の侍屋敷で生まれた。「乃木希典」(宿利重一・魯庵記念財団)によると、乃木希典は幼名を「無人」、後に「源三」、「文蔵」といい、明治四年に「希典」と改名している。
安政五年(十歳)十一月乃木無人は父母に伴われ、弟妹と江戸を出発、十二月長府藩、長門の国豊浦に帰郷。
安政六年(十一歳)四月乃木無人は松岡義明に小笠原流の礼法を習う。
万延元年(十二歳)島田松秀に句読・習字を習う。
文久元年(十三歳)結城香崖に漢学を、江見後藤兵衛に武家の礼法、弓馬故実を学ぶ。工藤八右衛門に人見流馬術、小島権之進に日置流弓術を、多賀鉄之丞に洋式砲術を学ぶ。
文久二年(十四歳)一月から中村安積に賽蔵院流槍術、黒田八太郎に田宮流剣道を学ぶ。三月から福田扇馬に兵書、歴史を学ぶ。
文久三年(十五歳)六月藩学敬業館内の集童場に入学、武教講録を学ぶ。十二月元服して名を「源三」と改名する。
元治元年(十六歳)三月乃木源三は萩に行き、玉木文之進(乃木家の親戚)の門下生となり修学。実は父と対立して無断で家出をして玉木家に寄食、農業に従事した。長州藩士・玉木文之進は山鹿流の兵学者で松下村塾の創立者。吉田松陰の叔父。
慶応元年(十七歳)九月明倫館文学寮に通学。栗栖又助より一刀流剣道を学び始める。
慶応二年(十八歳)四月乃木源三は萩から豊浦に帰り、兵務に就く。山砲一門の指揮官となり、豊前の国(小倉口)で戦う。奇兵隊に入り、山縣狂介(山縣有朋)の指揮を受け、戦うが左足甲に銃弾擦過傷を受ける。名前を「文蔵」に改名する。
慶応三年(十九歳)一月宗藩の命で萩藩学、明倫館文学寮に入学し、寄宿生となる。
慶応四年(明治元年)(二十歳)一月栗栖又助より一刀流の目録を伝受される。七月文学寮を退学する。
明治二年(二十一歳)一月乃木文蔵は報国隊の漢学助教(読書係)に任命される。五月戊辰戦争が終結。十一月藩命によりフランス式練習のため伏見御親兵兵営に入学。
明治三年(二十二歳)一月山口藩奮諸隊暴動につき、鎮圧のため帰藩を命ぜられ、山口金古曽で戦う。
明治四年(二十三歳)一月豊浦藩陸軍練兵教官。八月上京。十一月陸軍少佐に任ぜられ、東京鎮台第二分営に出張。乃木の陸軍少佐への大抜擢には黒田清隆が行ったといわれている。十二月歩兵第二中隊を指揮。正七位。名を「希典」に改名。
明治六年(二十五歳)四月名古屋鎮台大貳心得。六月従六位。
明治七年(二十六歳)五月休職仰せ付けられる(一回目)。九月乃木希典は陸軍卿(山縣有朋)の伝令使(副官)仰せ付けられる。
明治八年(二十七歳)九月習志野野営演習参謀。十二月熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得(小倉に赴任)。
明治九年(二十八歳)十月二十七日秋月の乱(福岡県)で小倉城警備。戦闘となり反乱軍を撃退した。十月二十八日萩の乱(前原一誠挙兵)で、乃木希典の実弟、真人こと玉木正諠(たまき・まさよし)は反乱軍に加わり戦死した。玉木文之進は門弟の多くが萩の乱に加わったことの責任をとって自刃した。
明治十年(二十九歳)西南戦争が起きると、二月乃木希典は第一四連隊を指揮して久留米に入り植木町で西郷軍との戦闘を行ったが、連隊旗を西郷軍に奪われ、自決を図る。四月陸軍中佐、熊本鎮台参謀。十月父・十郎希次病没。
明治十一年(三十歳)一月歩兵第一連隊長。勲四等。八月二十七日乃木希典は鹿児島藩士・湯地定之の四女・シズ(静子・二十歳)と結婚。
明治十三年(三十二歳)四月歩兵大佐。六月従五位。
明治十六年(三十五歳)二月東京鎮台参謀長。
明治十八年(三十七歳)四月勲三等、旭日中綬章。五月陸軍少将、歩兵第一一旅団長(熊本)。七月正五位。
明治十九年(三十八歳)十月従四位。十一月政府の命令によりドイツ留学(川上操六少将同行)。
明治二十一年(四十歳)六月帰国。
明治二十二年(四十一歳)近衛歩兵第二旅団長。
明治二十三年(四十二歳)七月歩兵第五旅団長。
明治二十五年(四十四歳)二月休職仰せ付けられる(二回目)。十二月歩兵第一旅団長。
明治二十六年(四十五歳)四月正四位。
明治二十七年(四十六歳)五月勲二等瑞宝章。東京の歩兵第一旅団を率いて日清戦争に出征、旅順要塞を一日で落とした。だが、三国干渉で遼東半島は返還され旅順はロシアの租借地となり、ロシアは旅順に難攻不落の要塞を築いた。
明治二十八年(四十七歳)四月陸軍中将、第二師団長。功三級金鵄勲章、旭日重光章、男爵。
明治二十九年(四十八歳)十月台湾総督。十二月従三位。母・壽子病没(台湾にて)。
明治三十年(四十九歳)六月勲一等瑞宝章。
明治三十一年(五十歳)二月願により台湾総督を免ぜられ、休職仰せ付けられる(三回目)。栃木県狩野村で晴耕雨読。十月第一一師団長。
明治三十四年(五十三歳)五月休職仰せ付けられる(四回目)。東京又は那須の邸宅を往来して晴耕雨読。
明治三十七年(五十六歳)二月八日、日露戦争勃発。留守近衛師団長兼近衛歩兵第一旅団長。三月十九日希典の子息、勝典と保典が出征。五月第三軍司令官に補せられる。五月二十六日勝典金州北門外で負傷、二十七日戦死。六月六日陸軍大将。正三位。十一月三十日保典二〇三高地背面で戦死。
明治三十八年(五十七歳)一月一日ロシア軍旅順要塞司令官・ステッセル中将(男爵・パプロフスキー士官学校卒)が降伏。一月五日水師営でステッセル中将と会見。一月十四日旅順入場式。一月二十四日奉天戦に参加。九月五日米国ポーツマスで日露戦争講和条約調印。
明治三十九年(五十八歳)一月十日凱旋帰国、宇品上陸。一月二十六日軍事参議官。四月弧戦役の功により功一級金鵄勲章、旭日桐花大綬章。八月宮内省御用係。九月プロシア皇帝よりプール・ル・メリット勲章を受領。
明治四十年(五十九歳)一月三十一日学習院長。四月フランス共和国政府よりグラン・オフィシェー・ド・ロルドル・ナショナル・ド・レジョン・ドノール勲章を受領。八月従二位。九月伯爵。
明治四十一年(六十歳)五月満州に派遣される。
明治四十二年(六十一歳)四月チリー国政府より金製有功章を受領。
明治四十四年(六十三歳)二月十四日東伏見宮依仁親王・同妃両殿下グレートブリテン皇帝載冠式参列に付随行(東郷平八郎元帥も)。四月十二日横浜出帆。六月七日英国上陸、六月二十二日載冠式参列。七月三日フランス、以後ドイツ、ルーマニア、トルコ、ブルガリア、セルビア、ハンガリーを経由し八月十日ベルリン着、ドイツ皇帝統裁の演習を陪観。八月十六日モスコーを通過西シベリア鉄道経由、八月二十八日敦賀上陸、帰朝。十月ルーマニア皇帝よりグラン・クロア・ド・ロルドル・ドレトワール勲章受領、グレートブリテン皇帝よりグレートブリテン皇帝・皇后載冠式記念章を受領。
明治四十五年(大正元年)(六十四歳)五月グレートブリテン皇帝よりグランド・クロッス・オヴ・ゼ・ヴィクトリア勲章受領。六月同皇帝よりグランド・クロッス・オヴ・バス勲章受領。七月三十日午前零時四十三分明治天皇崩御。九月一日英国皇族アーサー・オヴ・コンノート親王大喪儀参列の為来朝に付接伴員仰となる。明治天皇御大葬挙行当日の九月十三日午後八時東京市赤坂の自邸で明治天皇の御跡を追って殉死。享年六十四歳。静子夫人も希典に殉じて自殺。享年五十四歳。墓所は港区青山霊園。
大正五年十一月三日皇子裕仁親王の立太子の礼が行われる。この日、乃木希典特旨を以って正二位を贈られれる。