陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

132、宇垣一成陸軍大将(2) 清浦内閣の陸軍大臣をめぐる陸軍首脳の熾烈な抗争に火がついた

2008年10月03日 | 宇垣一成陸軍大将
 「宇垣一成~政軍関係の確執」(中公新書)によると、明治時代以降、内閣首班を事実上決めるのは元老であった。元老はもともと維新の元勲で、これが明治天皇の後継首班決定の相談にあずかった。

 大正天皇即位のときには、山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨、桂太郎の四人が「卿宜シク朕カ意ヲ体シ朕か業ヲ輔クル所アルヘシ」との勅語を賜った。大正2年桂太郎死去後西園寺公望が元老に加わった。

 大正4年井上馨、大正5年大山巌、大正11年山県有朋、大正13年松方正義がそれぞれ死去すると、以後は、後継首班を奏請する元老は西園寺公望一人となった。

 大正12年8月25日加藤友三郎死去に伴い、薩摩の海軍大将(大正2年退役)・山本権兵衛が首班に指名された。ところが9月1日関東大震災が起こり、死者・行方不明者14万2800人を出した。その翌日9月2日山本権兵衛内閣が組閣された。

 ところが、その年の12月27日に、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助(山口県光市立野出身)に狙撃された虎ノ門事件が起こった。山本権兵衛内閣はこの事件の責任をとり、翌大正13年1月7日に第二次山本権兵衛内閣総辞職した。当時の陸軍大臣は田中義一大将であった。

 元老西園寺公望と松方正義は清浦奎吾子爵を後継首班に据えるのが無難であるとの意見が一致しており、清浦奎吾に翌大正13年1月1日大命が降下した(大正天皇は病のため摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が政務を執っていた)。そして清浦内閣の陸軍大臣をめぐる陸軍首脳の熾烈な抗争に火がついた。

 明治から大正に至る日本帝国陸軍の派閥は二系列に分かれていた。長州閥と薩摩閥である。

 長州閥の系列は山県有朋元帥(山口)、桂太郎大将(山口)、寺内正毅元帥(山口)、田中義一大将(山口)、大庭二郎大将(山口)、宇垣一成大将(岡山)、南次郎大将(大分)、金谷範三大将(大分)、河合操大将(大分)、寺内寿一元帥(山口)、建川美次中将(新潟)、二宮治重中将(岡山)、小磯国昭大将(山形)、杉山元元帥(福岡)。

 薩摩閥の系列は、大山巌元帥(鹿児島)、野津道貫元帥(鹿児島)、上原勇作元帥(宮崎)、武藤信義元帥(佐賀)、福田雅太郎大将(長崎)、宇都宮太郎大将(佐賀)、真崎甚三郎大将(佐賀)、荒木貞夫大将(東京)。

 清浦内閣の陸軍大臣の就任をめぐって、上原勇作元帥派と田中義一大将派の間で熾烈な抗争が行われ、それは後々まで陸軍を二分する勢力争いに発展した。

 当時長州閥は、山県有朋元帥(大正11年没)、桂太郎大将(大正2年没)、寺内正毅元帥(大正8年没)は死去しており、田中義一大将が領袖であった。

 一方、薩摩閥は、大山巌元帥(大正5年没)、野津道貫元帥(明治41年没)が死去しており、上原勇作元帥が領袖であった。