陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

228.山下奉文陸軍大将(8)英軍といっても三分の二は土民兵だ。一気にけちらせないでどうするか

2010年08月06日 | 山下奉文陸軍大将
 十一月十八日、協定は無事完了した。その日は山下中将五十七歳の誕生日だった。「宮田少佐」の呼称でサイゴンを訪れていた竹田宮恒徳少佐(陸士四二・陸大五〇)の臨席の下に、陸海軍関係者の夕食会が催された。

 「宮田少佐」は、ニコニコと談笑に加わっていたが、誰にともなく、「それで、シンガポールはいつ落ちますか」とたずねた。

 「ほぼ、三月十日、陸軍記念日を期しております」と答えたのは、第二十五軍作戦参謀・辻政信中佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜)だった。

 だが、山下中将は、「いや、」と口をはさんで、「殿下、小官は正月には必ずとるつもりでおります」と言った。

 「正月? それは早すぎませんか」と、「宮田少佐」は反問した。辻中佐も驚いて、少し向きになった口調で、「正月には、ぺラク河の線が妥当でしょう」と言った。

 山下中将は、それ以上は発言しなかった。だが、山下中将は前日、サイゴン郊外のゴム林とジャングルを視察した。その結果、次の様な想定をしていた。

 ゴム林もジャングルも歩兵の突進にはさして障害にならない。それにシンガポール攻略は南方作戦の要である。南方作戦の第一段階の最終目標はジャワの油田地帯だが、ジャワにはシンガポール、フィリピンを制圧してから向うことになっている。

 シンガポールは、海正面からの攻撃は敵の要塞があるので避け、防備不利なマレー半島を南下して背後から攻める。その縦断距離は約千百キロ、長行軍とはいえ、一刻も早く攻略せねば、ジャワの防備は強化されるばかりだ。

 以上のことが頭にあったので、山下中将としては、正月と言ったのは確かに早すぎるとは承知しながら、あえてそのくらいの覚悟と熱意で突進すべしと強調した。

 昭和十六年十二月八日午前一時半頃、歩兵第二十三旅団長・佗美浩陸軍少将が指揮する第五十六連隊基幹の佗美支隊が、マレー半島北部のコタバル海岸に上陸した。

 太平洋戦争の始まりは、海軍の真珠湾攻撃よりも、この陸軍のコタバル海岸上陸のほうが早かった。コタバル海岸上陸は、シンガポール攻略を目的として、日本の第二十五軍が行った、マレー作戦の開始でもあった。

 同時刻に、北方のタイ王国領シンゴラ、バタニ地区に第五師団主力三個連隊を率いて上陸したのは、第二十五軍司令官・山下奉文中将だった。

 マレー作戦に参加したのは、第二十五軍隷下の第五師団、近衛師団、第十八師団だった。それに第三戦車軍団なども参加した。

 上陸当時の兵力は、各師団の全部隊が参加したのではないので、約二万六千人に過ぎなかった。だが、敵のイギリス軍は八万人を超えていた。

 もし敵が日本軍の進撃する道路の両側に布陣して、橋を破壊して日本軍の進撃をくいとめれば、前進が手間取るだけでなく、第二十五軍は逐次に兵力の消耗をかさねてマレー半島の密林内に自滅する可能性もあった。

 山下中将は、こういった危険をさけ、迅速に使命を達成する戦法はただひとつ、息つかぬ突進による的中突破以外にないと判断した。山下中将は参謀長・鈴木宗作中将(陸士二四・陸大三一)に次のように言った。

 「ドイツの電撃戦、あれは敵陣にクサビをうちこみ、両翼に迂回して包囲する戦術だが、こちらはまっすぐジョホールまでキリモミでいく。残敵は後続部隊が始末すればよい。電撃戦ではなく電錐戦だ」

 山下中将は、さらに一息ついて付け加えた。

 「敵兵力は・・・・八万か。うむ。敵は八万いようとも、わが兵には東亜開放の聖戦目的がある。実戦の経験もある。英軍といっても三分の二は土民兵だ。一気にけちらせないでどうするか」

 十二月十二日、イギリス軍が誇る、タイとマレーの国境に構築していた頑強な防御陣地「ジットラライン」を日本軍は攻撃開始した。そして、その日のうちに陥落させた。

 昭和十六年十二月十七日、第二十五軍司令部は次のような作戦計画日程を決定した。

 十二月二十八日ベラク河進出、ペナン島占領。昭和十七年一月七日ベラク渡河完了。一月十七日クアラルンプール占領。一月二十七日ジョホール州占領。二月十一日(紀元節)シンガポール占領。

 山下中将が、サイゴンで竹田宮少佐にもらした「シンガポール正月占領」には及ばないが、予定の三月十日(陸軍記念日)よりは一ヶ月の繰り上げである。

 起案者は作戦主任参謀・辻政信中佐だった。幕僚の間には実現を危ぶむ声も聞こえたが、山下中将は即決した。だが、山下中将は、内心、不満だった。