もともと、正月攻略が山下中将の持論だった。一ヶ月繰り上げは当然のことで、本来なら、いま一声欲しいところだった。だが、固執はしなかった。幕僚中心主義、つまり、計画立案は幕僚に委ねるのが、日本陸軍の建前だったからだ。
不満のタネは別にあった。世界が注視する大戦争である。大本営報道部が叫ぶように「百年戦争」などできるものではない。すばやく正々堂々と打撃を与え、敵からも、被支配地住民からも「大義の戦士」とあがめられてこそ、有終の成果を期待できるのだ。
ところが、指揮下の幕僚、将兵を見ると、山下中将の眼には、少なからず、この戦争に対する懸命さと賢明さが欠けているように見受けられた。
一ヶ月繰り上げ計画にしても、辻中佐の提案の裏には、緻密な計算のほかに、なにか記念日目当て、いわば大向こうの拍手を期待するスタンドプレー的臭気がただよっていると、山下中将は感得した。
辻中佐ばかりではない。山下中将の昭和十六年十二月二十六日の日記には次のように書かれている。
「両D共前進ス。飛行副長来ル。研究不充分ニテ迷惑至極ナリ。サルタン来ル。皆馬鹿ナリ」(Dは師団の略語。この日から近衛師団歩兵第四連隊が第一線に加わった)。
「皆馬鹿ナリ」は極端な表現だが、よく知れば知るほど、万事に細心な山下中将にとっては、部下の挙動は不満だらけだった。
副官の鈴木貞夫大尉も受けるのも、注意とお叱りの連続だった。山下中将の清潔好きはますます強化され、どんなに暑くても、北支初陣に携行した折りたたみカヤでベッドを覆い、食物の洗浄は厳に守らせた。
第十八師団長・牟田口廉也中将(陸士二二・陸大二九)が、戦列参加を前に挨拶に飛来したとき、鈴木副官が気を利かせてご馳走を出すと、「先陣だ、分相応にせい」といわれ、荷物を運ばせる苦力に目を止めると、「おい、チップを用意したか、誰だってタダで働かせるのは、いかん」など、言われてみればもっともなことばかりだった。
第五師団に随行して作戦指導にあたっていた第二十五軍の作戦主任参謀、辻政信中佐は、現有の第四十一、第四十二連隊だけでは兵力不足と判断して、クアラルンプール攻略促進のために西海岸沖を海上機動して敵の側背をつく予定の第十一連隊を増派するよう、タイピンの軍司令部に進言した。
辻中佐は電話では言葉不充分として、夜半、車を飛ばして司令部を訪ね、増派の要請を行った。だが、意見が通らぬとみると、辻中佐は「辞めさせてもらいたい」と発言する一幕があった。
そのとき、山下中将は別室に休んでおり、鈴木参謀長を通じ委細を承知したが、辻中佐の態度がよほど山下中将のカンにさわったとみえ、次のように日誌に鋭い批判を書いている。
「一月三日・晴・土。『カンパル』ノF(敵)ハ逐次退却セルモ窮迫大ナラズ、蓋シ大隊長等ノ元気不足ナレバナリ・・・・辻中佐第一線ヨリ帰リ私見ヲ述ベ、色々言アリシト云ウ。此男、矢張リ我意強ク、小才ニ長ジ、所謂コスキ男ニシテ、国家ノ大ヲナスニ足ラザル小人ナリ。使用上注意スベキ男也」
この後に続いて、山下中将は「小才物多ク、ガッチリシタル人物ニ乏シキニ至リタルハ亦教育ノ罪ナリ」と付け加えている。
カンパルは、辻中佐を批判した翌日、一月四日に陥落し、第二十五軍司令部は一月五日、イポーに移った。軍司令部は華僑の富豪の邸宅に入った。
この日、山下中将は早速、軍属、通訳を舌鋒にのせた。日誌には次のように記している。
「午前十時、徴用人員ヲ集メ一場ノ訓示ヲ与フ。彼等自我心ニ駆ラレ、只利害関係ノミニ眩惑シ、此度徴用セラレ死生ノ地ニ立タシメラレタルコトニ関シ、甚シキ不平アリ。千載一隅ノ時機、自己ノ腕ヲ国家ノ為ニ揮フト云フガ如キ、意気アルモノ一名モナシ・・・・・・」
「夜、通訳ト談ジ聖戦ノ本旨ヲ述ブ。彼等何事モ知ラズ、只食フ為ニ英語ヲ話ス一種ノ器械也、嗚呼」
第二十五軍は、クアラルンプール以南のマレー半島南部を一気に制圧することになり、山下中将は、第五師団を本道に、近衛師団を西海岸に配し、東岸を南下する第十八師団と呼応して追撃を早める措置をとったが、山下中将はその部隊にも不満を述べている。
「一月六日・晴・火。・・・・・・部隊ノ鍛錬、大隊長以下ノ能動能力ノ低下ニ驚クノ外ナシ。戦後ハ何ヨリモ将校以下幹部ノ積極性涵養ヲ最必要トス」
「一月八日。晴・木。午前十時発、カンパル戦場ヲ見ル。・・・・・・好適ノ攻撃地区ヲ為スニ拘ラズ、徒ラニ道路ノミ依ラントシ攻撃、三十、三十一、一、二、三、四ト六日ニ及ビ、而モ戦死者百、負傷二百ヲ出セシハ愚ノ極ナリ・・・・・・」
「下士出身ハ自ラノ都合ヲ考ヘ、当番衛兵等ニ対スル同情無キハ通有ノ欠陥ナリ。家庭教育ノ罪ニアルベシ」
不満のタネは別にあった。世界が注視する大戦争である。大本営報道部が叫ぶように「百年戦争」などできるものではない。すばやく正々堂々と打撃を与え、敵からも、被支配地住民からも「大義の戦士」とあがめられてこそ、有終の成果を期待できるのだ。
ところが、指揮下の幕僚、将兵を見ると、山下中将の眼には、少なからず、この戦争に対する懸命さと賢明さが欠けているように見受けられた。
一ヶ月繰り上げ計画にしても、辻中佐の提案の裏には、緻密な計算のほかに、なにか記念日目当て、いわば大向こうの拍手を期待するスタンドプレー的臭気がただよっていると、山下中将は感得した。
辻中佐ばかりではない。山下中将の昭和十六年十二月二十六日の日記には次のように書かれている。
「両D共前進ス。飛行副長来ル。研究不充分ニテ迷惑至極ナリ。サルタン来ル。皆馬鹿ナリ」(Dは師団の略語。この日から近衛師団歩兵第四連隊が第一線に加わった)。
「皆馬鹿ナリ」は極端な表現だが、よく知れば知るほど、万事に細心な山下中将にとっては、部下の挙動は不満だらけだった。
副官の鈴木貞夫大尉も受けるのも、注意とお叱りの連続だった。山下中将の清潔好きはますます強化され、どんなに暑くても、北支初陣に携行した折りたたみカヤでベッドを覆い、食物の洗浄は厳に守らせた。
第十八師団長・牟田口廉也中将(陸士二二・陸大二九)が、戦列参加を前に挨拶に飛来したとき、鈴木副官が気を利かせてご馳走を出すと、「先陣だ、分相応にせい」といわれ、荷物を運ばせる苦力に目を止めると、「おい、チップを用意したか、誰だってタダで働かせるのは、いかん」など、言われてみればもっともなことばかりだった。
第五師団に随行して作戦指導にあたっていた第二十五軍の作戦主任参謀、辻政信中佐は、現有の第四十一、第四十二連隊だけでは兵力不足と判断して、クアラルンプール攻略促進のために西海岸沖を海上機動して敵の側背をつく予定の第十一連隊を増派するよう、タイピンの軍司令部に進言した。
辻中佐は電話では言葉不充分として、夜半、車を飛ばして司令部を訪ね、増派の要請を行った。だが、意見が通らぬとみると、辻中佐は「辞めさせてもらいたい」と発言する一幕があった。
そのとき、山下中将は別室に休んでおり、鈴木参謀長を通じ委細を承知したが、辻中佐の態度がよほど山下中将のカンにさわったとみえ、次のように日誌に鋭い批判を書いている。
「一月三日・晴・土。『カンパル』ノF(敵)ハ逐次退却セルモ窮迫大ナラズ、蓋シ大隊長等ノ元気不足ナレバナリ・・・・辻中佐第一線ヨリ帰リ私見ヲ述ベ、色々言アリシト云ウ。此男、矢張リ我意強ク、小才ニ長ジ、所謂コスキ男ニシテ、国家ノ大ヲナスニ足ラザル小人ナリ。使用上注意スベキ男也」
この後に続いて、山下中将は「小才物多ク、ガッチリシタル人物ニ乏シキニ至リタルハ亦教育ノ罪ナリ」と付け加えている。
カンパルは、辻中佐を批判した翌日、一月四日に陥落し、第二十五軍司令部は一月五日、イポーに移った。軍司令部は華僑の富豪の邸宅に入った。
この日、山下中将は早速、軍属、通訳を舌鋒にのせた。日誌には次のように記している。
「午前十時、徴用人員ヲ集メ一場ノ訓示ヲ与フ。彼等自我心ニ駆ラレ、只利害関係ノミニ眩惑シ、此度徴用セラレ死生ノ地ニ立タシメラレタルコトニ関シ、甚シキ不平アリ。千載一隅ノ時機、自己ノ腕ヲ国家ノ為ニ揮フト云フガ如キ、意気アルモノ一名モナシ・・・・・・」
「夜、通訳ト談ジ聖戦ノ本旨ヲ述ブ。彼等何事モ知ラズ、只食フ為ニ英語ヲ話ス一種ノ器械也、嗚呼」
第二十五軍は、クアラルンプール以南のマレー半島南部を一気に制圧することになり、山下中将は、第五師団を本道に、近衛師団を西海岸に配し、東岸を南下する第十八師団と呼応して追撃を早める措置をとったが、山下中将はその部隊にも不満を述べている。
「一月六日・晴・火。・・・・・・部隊ノ鍛錬、大隊長以下ノ能動能力ノ低下ニ驚クノ外ナシ。戦後ハ何ヨリモ将校以下幹部ノ積極性涵養ヲ最必要トス」
「一月八日。晴・木。午前十時発、カンパル戦場ヲ見ル。・・・・・・好適ノ攻撃地区ヲ為スニ拘ラズ、徒ラニ道路ノミ依ラントシ攻撃、三十、三十一、一、二、三、四ト六日ニ及ビ、而モ戦死者百、負傷二百ヲ出セシハ愚ノ極ナリ・・・・・・」
「下士出身ハ自ラノ都合ヲ考ヘ、当番衛兵等ニ対スル同情無キハ通有ノ欠陥ナリ。家庭教育ノ罪ニアルベシ」