陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

610.桂太郎陸軍大将(30)新内閣の考えを聞かないでは、留任できないとの意思を示した

2017年12月01日 | 桂太郎陸軍大将
 山縣元帥は、政党内閣に端を開くことを危惧し、「それは、国体に反し、欽定憲法の精神に悖(もと)る」と反論した。

 だが、伊藤首相は「辞任後の後継内閣首班は、多数の議員を擁する新党(憲政党)の領袖、大隈重信と板垣退助を奏請する」と主張した。

 山縣元帥が、それに反対すると、伊藤首相は「しからば、元老中から後継首相を推薦してはどうか」と言い、山縣元帥を名指しした。山縣元帥は、すぐに断った。

 伊藤首相は、その日のうちに参内し、自分の首相辞任と、勲位顕爵一切を辞退する上表を提出した。同時に後継首班に大隈と板垣を推薦した。

 また、元老中から選ばれる場合は、山縣元帥または黒田清隆(くろだ・きよたか)枢密院議長(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後樺太開拓次官<三十歳>・欧米旅行・陸軍中将<三十四歳>・参議兼開拓長官・征討参軍<三十七歳>・内閣顧問・伯爵・農商務大臣・首相<四十八歳>・予備役・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・内閣総理大臣臨時代理・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)を任命されるよう奏上した。

 六月二十五日元老を招集して御前会議が開かれた。だが、元老の中に後継首班の任を担う者はなく、大隈重信、板垣退助の両人に組閣の大命が下った。

 組閣は、憲政党の中の、旧進歩党派の大隈を首相に、旧自由党派の板垣を内務大臣することで進んだので、「隈板(わいはん)内閣」とも言われた。日本史上初の政党内閣となる。

 伊藤博文は、伊藤内閣の陸海両大臣の留任を奏上し、明治天皇がこれを受け容れ、桂太郎陸軍中将、西郷従道海軍元帥の両人に留任の勅諚が出された。

 だが、政党勢力と対抗する山縣系の桂太郎中将は、この憲政党の隈板内閣に対して、辞表を提出した。

 六月二十五日夜、侍従長・徳大寺実則(とくだいじ・さねつね・京都・尊王攘夷派の公卿・正二位・維新後明治政府参与<二十八歳>・権大納言・大納言・侍従長兼宮内卿<三十一歳>・内大臣兼侍従長<五十一歳>・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾)から、山縣有朋元帥に次のような下問があった。

 「桂からは辞表が出されている。山縣からは辞職しないという説明であったが、何かの手違いがあるのでは」。

 翌日、山縣元帥は、「辞表は却下すべきであると上答しておいた」と桂中将に知らせた。

 これに対して、桂中将は、山縣元帥への返書で、辞表捧呈は自分にとっては、止むを得ない処置であるとし、次の様に記している。

 「此上ハ第一陛下ノ思召、第二ハ将来我ガ陸軍ニ関スル事件ニ付、新内閣ノ意見ト小生ノ意見トノ調和如何ニテ最後ノ決心仕ルベク覚悟ニ御座候」。

 この文では、「新内閣の考えを聞かないでは、留任できないとの意思を示した」と述べている。

 だが、そのあとに、陸相留任は桂自身にとって容易なものではないが、最終的には、山縣元帥に、その取り扱いを任せる、との旨を記している。

 桂太郎中将は西郷従道元帥とともに、親任式直前に宮中で、大隈首相と板垣内相に面会した。そこで、大隈首相は、陸海軍の軍備拡充計画を全面的に認めることを確約したので、桂中将は、正式に留任することになった。

 明治三十一年六月三十日、日本憲政史上初の政党内閣、第一次大隈重信内閣が成立した。陸相と海相以外の全ての大臣には、憲政党員が就任した。

 陸軍大臣・桂太郎中将は、海軍大臣・西郷従道元帥と図って、できるだけ閣議には出席せず、本拠地である陸海軍を守って、「一歩たりとも我が根拠地を侵さしめざる」方針をとった。

 九月初旬、山縣元帥も書簡で桂中将を激励し、隈板内閣による制約を受けることなく、陸軍の改良計画は着々と推進する必要があると主張している。

 明治三十一年九月二十八日、桂太郎中将は、陸軍大将に昇進した。五十歳だった。

 この隈板内閣は、地租増徴を否定して、次年度予算を策定するために、各種の増税や新税の設定とともに、歳出削減を必要とし、臨時政務調査局で各省予算について削減額を提示した。